平安幻想異聞録-異聞-<外伝> 16 - 20
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だから、近衛ヒカルの心が別の人にあると分かっても、その心の一部分にでも
自分の居場所を確保したくて、ずっと、アキラはヒカルのよい「友達」である
ように努力していた。
せめて、友達としてでも、自分は彼の特別でありたかったのである。
そして、そうだという自負があった。
なのにヒカルは、何も言ってくれないのだ。
他の誰に吐き出せない事でも、自分には言ってくれると思っていたのに。
それが、アキラの心を苛立たせる。
近衛ヒカルは最愛の人を失った。
哀しいだろうと思う。辛いだろうと思う。
だが、ヒカルは自分の前でも、口を結んで、決してそれを表に出さない。
今朝、近衛の家の前で、思わずヒカルを問い詰めそうになった。
「僕は、友人としてそんなに頼りにならない存在か?!」
と。
他の人間とは違い、自分はヒカルと佐為の表沙汰に出来ない関係も知っている。
ヒカルが座間の策略にはまって大変な事件に巻き込まれたときも、藤原佐為と
一緒に彼を救うために手を尽くした。
だからこそ、佐為がいなくなった哀しみを、近衛ヒカルと共有できるのは唯一
自分だけだと思っていた。
近衛ヒカルにとって、自分はそういう特別な存在なのだと。
辛いなら言ってくれればいいのだ。
哀しいなら、自分の前で泣いてくれればいい。
こんな時だから頼って欲しかった。
なのに、ヒカルはそうはしてくれない。
だから、自分がここにいることに気付いて欲しくて、唇を奪ってしまった。
しかし、ヒカルは押し黙ったまま、何も語ってはくれない。
初めて触れた唇の苦さだけが、今のアキラには、むやみに鮮明に思い返される
のみだった。
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日課になった碁会所の掃除の手順は、すでに体が覚えてしまっていて、何も
考えなくとも手が動く。
次の日も、仕事帰りに、佐為の香りを濃く残すそこに立ち寄ったヒカルは、黙々と
ただ、板敷きの床を掃き清める。毎日そうしているせいで、ホコリさえ殆ど落ちて
はいなかったが、体を動かしている間は頭が真っ白になって、何も思い出さずに
いられた。この碁会所の持ち主がもういないことも。自分を暖めてくれた腕が失わ
れたことも。
そのうち、同じように自分の中の佐為の記憶も真っ白になってしまう日がくるの
だろうか? 忘れることが出来るのだろうか、自分に。
拭き掃除に使う水は、ひと足早く冬になってしまったようで切るように冷たく、
ヒカルの指先は真っ赤になった。
碁会所を出た後、ヒカルは昨日、顔を出しそこねた藤崎家に立ち寄った。藤崎の家では、
あかりの家族があたたかく迎えてくれた。ここではヒカルの家と同じように、世俗と
関係なく、和やかに穏やかに時間が流れている。まるで、佐為が入水した事実なんて
どこにもないかたように。佐為なんて最初からいなかったと思うほど。
ヒカルがあかりの家族に案内されて屋敷の奥へ行くと、その突き当たりの部屋の御簾が、
がばりと無造作に上げられて藤崎あかりが顔を出した。
「あ、ヒカル、来てくれたんだーーっ!」
「来てくれたんだーじゃ、ねぇだろ! おまえ、内裏勤めでちったぁ女らしくなった
かと思ったのに、なんだよ、その御簾の上げ方! 女ってのはなー、もうちっと慎まし
やかにだなぁ!」
「いいじゃーん、私の家だし、どうせヒカルだし」
「なんだよ、そのどうせってのは!」
「どうせは、どうせだもーん。御簾を女らしく上げてみた所で、その雅さとか優雅さ
とかヒカルにわかんの?」
「わ、わかるさ」
「へー、じゃ、ヒカルが見本をやってみせてよ、その慎ましやかな御簾の上げ方っ
てやつ」
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「男ができるかーーっっ!」
「やっぱり口先ばっかりじゃない」
「あかり、いい加減になさい!」
ポンポンと交わされるやり取りに存在を忘れられていたあかりの母が、ぴしゃりと
自分の娘をしかった。しかし、その顔が面白そうに微笑んだままなのだから、この
幼なじみ同士のこんな会話は、昔から何度も繰り返された日常の光景であることが
わかる。
「ホントに、ヒカルさんからも言ってやってくださいね。もう少し女らしくしないと、
通ってくる殿方にも呆れられてしまいますよ」
あかりが肩をすくめて小さく舌を出した。
そんな彼女の様子を見咎めて、また小さく叱ると、あかりの母は一礼して戻っていった。
残ったヒカルは、上げられた御簾のうちに入り腰を下ろす。
あかりが、会話を両親に聞かれないようにするためか御簾を降ろした。
「なんだ、やっぱり、あかりんとこに通うような物好きな男がいたんだ」
「追い返したけどね」
「……なんで?」
「秘密」
あかりは怒ったようにふいと横を向いてしまった。これはこの話題に先はないと、
幼なじみの勘でさとったヒカルは別の話を振る。
「おまえ、今回なんで帰ってきたの? 月一のやつとは違うだろ?」
「犬が死んだの」
「犬?」
「うん、みんなで可愛がって餌をやってた野良犬がいたんだけどね。死んじゃったの」
あかりが寂しそうな目線で床板の木目を追っていた。
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「たぶん、自分の死ぬのわかってたんだろうな。だから最後の挨拶に来たんだろう
と思う。私のね、部屋の床下にもぐって死んでたの」
なるほどと、ヒカルは合点がいった。「死」は血の穢れと同様、内裏では忌み嫌わ
れる。人の死だけでなく、犬などの動物の死も同様。あかりはその穢れを受けたとして
里――実家に下がってきたのだ。
もちろん、こういった場合は下がった里でも、門を締め切り物忌みを示す札を上げ
静かに過ごすのが本来だが、今回は穢れの元が人ではなく犬ということで、その辺の
意識が緩んでいるらしい。このあかりの里帰りは、穢れ払いの物忌みというより、愛娘
の予定外の帰宅休暇という風に藤崎家の人間には捉えられているのだ。確かに、この
頃では、犬猫の死ひとつに陰陽道の教えをひも解いて一喜一憂するような神経質な
人間は、笑い話の中にしか存在しないが。
「どうせ、死ぬんならさ。最後に床下なんかじゃなくて、私のところにちゃんと来て
くれればいいのにって、そしたら、最期に息をしなくなるまで抱きしめてあげるの
にって思った」
あかりが、まるで遠くを眺めるように、傍のついたての中に描かれた秋草の野を見る。
今にも風に揺れだしそうなその草の葉の色映える、今日の彼女の着物の色は紅菊襲ね。
一番上の小袿は目にも鮮やかな紅の色。
その紅の肩から、明るめの色をした髪が、一房、幽かな音をさせて肩から落ちるのを
ヒカルは見た。ここに流れる時間は柔らかい。
息を吐きながら、ヒカルがあかりの横顔を眺め、膝を崩そうとした、その時。
「ヒカルもそう思った? 佐為様のこと聞いた時、そう思った?」
突然に話をこちらに放り投げられて、ヒカルは崩しかけた足を強ばらせた。
「せめて、死に目にぐらい会いたかったって思った?」
十二単の袖から覗く細い指先が、膝の上に置かれていたヒカルの指に、そっと触れる。
それで初めてヒカルは、自分の手が震えていることに気付いた。
「ちょっと、寒いみたいだな。おばさんに言って、火鉢、貰ってくる…」
「ごまかさないで」
あかりが、逃げようとしたヒカルの指を両手でつかんだ。まるでヒカルの震えを止め
ようかとするように強い力だった。
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「昨日はごめんね。会えなくて。でも、他の人がいると、今のヒカルは居心地が悪い
かなって思って。昨日の人達、佐為様の指導碁とか受けたことある人達だったから、
ヒカルも顔知ってて、嫌かなって思ったの」
「別に、そんなの……」
声が掠れた。
「犬が死んだ後、私が落ちこんでたら、友達が教えてくれたんだ。犬はね、好きな
人の前では絶対に死にたくないんですって。好きな人が悲しむ顔を見たくないから
なんだって」
「なんで、そんな話俺にするんだよ」
「だからね、ヒカル。佐為様も、ずっと最期までヒカルのこと考えてくれてたんだと
思うよ。最期までヒカルのこと好きだったんだと思うよ」
「だからどうして、そこで佐為が出てくるんだよ! 関係ないだろ、あいつは…、
俺が仕事でずっと警護してやってただけで、なのに、あの馬鹿、ちょっと目を離した
隙に勝手に……」
胸の奥で波がうねるような感覚がして、喉が詰まり、それ以上の言葉が出なかった。
あかりがヒカルを見た。
「ほんと、勝手だよね。好きな人の悲しむ姿を見たくないなんてさ。独りよがりも
いいとこ。こっちにすればさ、悲しくてもいいから一緒にいたかったと思うし、
最期まで辛くてもいいからずっと手をつないでたかったって思うよね」
あかりの両手に包まれたままの手の震えはいつの間にか止まっていて、その代わりに
何本もの針を飲み込んだような酷い痛みと熱さが胸を襲った。耐えかねたヒカルは、
自分でも気付かぬうちに、もう片手で自分の胸元をぎゅっと掴んでいた。
包み込んだ指ごと、その体を自分の方に引き寄せ、あかりはこつりと自分の額をヒカル
の額にあてる。
「知ってたよ、ヒカルが、佐為様を好きなこと。佐為様とそういう風に好きあってるっ
てこと」
「あかり…」
「ずっと私は知ってたよ…」
ヒカルの胸の奥、その言葉に、何かのつかえが取れた感覚がした。さっきまで、胸を
苛んでいた針の痛みが熱い雫と変わって目からこぼれ出し、今は次々と滴り落ちて
あかりの膝の上に染みを作っている。
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