敗着-透硅砂- 16 - 20
(16)
(遅くならないって言ったのに、遅いよ…)
ソファに寝転がって、何をするでもなく天井を眺めていた。
玄関の扉が開く音がした。
(帰ってきた――!)
飛び跳ねるように体を起こし、急いで玄関へ向かう。写真を見たせいで、緒方がとても遠い存在になったような気がしていた。
「…あー…」
帰ってきた緒方の顔を見てうな垂れそうになった。目が据わっていたのだ。
「飲んでるの…?」
靴を脱ぐ足元が少しふらついている。
「成り行きで…呼ばれてな……」
半分寝ているかのような口振りで、ふらふらと部屋に入っていく。その後ろについていって声をかけた。
「水、くんでこようか?」
「いや、いい。自分でする」
台所へ行くと棚からコップを出し、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し注ぐと一気に飲み干した。
そして居間へと入っていった。
どさりとソファに座り込むと、長々と脚を伸ばしている。その前に立って、目を閉じている緒方の顔をじっと見つめた。
緒方はそれには気づかず大きな欠伸を一つすると、上着に手をかける。
「あ、待って。脱がないで」
「――?」
手を止めて不思議そうにこちらを見た。
「見慣れてないから。格好いいよ、それ。着といてよ」
一瞬きょとんとした顔をしていたが、やがて嬉しそうに目を細めると
「コノヤロウ」
と言って指で額を突ついてきた。
「ヤクザじゃなかったのか?」
きちんと座り直して膝の上に腕を乗せると、両手を軽く繋いで笑いながら訊いてきた。
「うん、政治家とか会社の偉い人が悪いことしてテレビに映ってる時、一緒にいる人みたい」
「あのな」
顔をくしゃくしゃにして笑ったが、真顔に戻ると静かに見つめてきた。
レンズ越しの淡い色のその瞳を、捉えられたように見つめ返した。
(17)
しばらく見つめ合っていたが、不意に緒方が体勢を変えてごろりとソファに寝そべった。
「進藤、オレは寝るからなっ」
「え、ちょっと待ってよ…、」
手足を長々とソファに横たえ伸びをしている緒方を起こそうとして慌ててひざまづいた。
「進藤」
「なに?」
クッションを頭の下にあてがいながら、目をつむったままの緒方が言った。
「オレの上着の内ポケットに財布が入ってる。それ、出せ」
「財布…」
だらりと置かれていた腕をどけて、喪服の上着をめくると中を探った。
「あった」
取り出したこげ茶色の長札入れを手に持って言った。
「その中開けてみろ。万札が入ってるから、それ、一枚出せ」
「――出した」
「それはお前にやる。それでタクシーつかまえて帰れ。足りるだろう?」
「えっ?そんな、ちょっとセンセ…、」
「オレは寝る」
それだけ言うと、すぐに寝息をたててしまった。
(チェ――…)
まだバスも電車もあるよ…。
取り出した一万円札をテーブルの上に置くと、札入れを閉じて内ポケットに戻した。
大きなため息が出た。
肩を落として寝室へ行って、掛け布団をずるずると引き摺ってくる。
(この人、いつも酔ってるのかなあ……)
すうすうと寝ている緒方の上に脚まで隠れるように布団を掛けると、注意深く眼鏡を外してテーブルの上の一万円札の上に置いた。
(ここ引っ張ったらいいんだよな…)
教えられたことを思い出しながらネクタイを緩めた。
そして緒方が寝ているソファの脇にちょこんとしゃがみこんだ。
起きる気配もないその寝顔を息を殺して見つめる。
(塔矢も…この顔……見たことあるんだよな……)
(18)
無防備なその寝顔をまじまじと観察した。
あまり笑わないのか、目尻の皺は少なかった。
髪と同じ色をした眉毛を凝視する。
(髪とおんなじ色…。インモーも同じ色だったよな…)
整えられているその眉毛を二度三度、人差し指の腹でそっとなぞってみた。
長くはないが、均等に生え揃った薄い色の睫毛と、伏せられて眼球を包んでいる二重瞼を眺めた。
通った鼻筋と、閉じられた口元。出掛ける前にきちんと剃ったのか、髭の剃り残しはなかった。
(お父さんと違って…電気シェーバー使わないんだよな…)
洗面台の前で髭剃りフォームを顔に塗り、T字型カミソリを使って髭を剃っている緒方を思い出した。
好奇心で顎も触ってみようとしたが、止めておいた。
(――帰ろ。)
立ち上がるとリュックを取りに行って、もう一度戻って来てから眠っているのを確認し、電気を消して部屋を後にした。
玄関の扉が閉まる音を聞いて、暗闇の中で飛び起きた。
(危なかった―――。)
ネクタイを緩めるついでにキスでもされていたら、迷わず押し倒していた。
見ず知らずの故人の棺を前にして、泥酔するわけがなかった。
(進藤…。ヤバかったぞ……)
もう以前とは違う、慣れた手つきでネクタイを緩められた感触に頭がくらりとした。
撫でられた眉毛を痒いところを掻くようにゴシゴシと擦る。
(寝てる奴の眉毛を触るな…)
ブラインドの隙間から漏れる外の仄かな明かりに、テーブルの上に置かれた一万円札が見えた。
(置いていったか……。)
小さなため息をつくと、テーブルの札の上に重しのように置かれている眼鏡を取ってかけた。
ソファに座り直すと胸ポケットから煙草を取り出し口にくわえる。
(ここに来て…何もないことが分かればすぐに飽きる年頃だ……。その頃にアキラが持っていくだろう……)
ライターを持って火を点けようとしたが、蓋を開けたり閉めたりしてしばらく遊んでいた。
腕の下で、掛けられた羽根布団がふわふわと腕の重みを撥ね返している。
(これで――、良かったんだよな――。)
そう言い聞かせると、羽根布団を軽くパンチした。
(19)
「あ、こんにちは。今日も緒方さんが一番乗りですか」
和室の障子を開けた芦原が、開口一番に言った。
「ああ…」
曖昧に笑って答える。アキラと顔を合わせないためだとは、よもや言えなかった。
「最近は緒方さんがずっと一番で、オレ肩身狭いですよ」
そう言いながら、笑って下座に座る。
「今日はスーツじゃないですね」
「いつも着てるわけじゃないからな」
「そうですね」と言って周囲の少しずれて置かれている座布団をきちんと並べ直す。
「暑くないですか?障子、開けましょうか?」
「そうだな」
立って芦原と一緒に障子を開け放つと、目の前に日本庭園が現れた。
座布団を持ってきて、廊下に芦原と共に座った。
スッキリと剪定された松の木の葉が陽光に青々と光り、池の中を鯉が悠々と行き交っているのが見える。
「暑くなりましたね。オレ、もう扇風機出しましたよ」
芦原がポロシャツの一番上のボタンを外しながら言った。
(こんな日だったな…。写真を撮ったのは…)
こいつがカメラを買ったというので、アキラと二人で撮ってもらった。
芦原の方をちらりと見た。
少し汗ばんだ気色で、同じように庭を眺めている。
杜若の葉が艶々と光って池に映っている。
池を取り囲む庭石の後ろにある植え込みに目がいった。紅葉と楓の間に配されている、この庭では控えめな植木だ。
無邪気に屈託なくはしゃいでいたアキラを思い出した。
(アキラ…。昔はよく笑ったな……)
鯉の背鰭が一瞬水面に翻り、キラリと水が乱反射した。
その眩しさに思わず目をつむった。そして再び目を開けると、水面はただゆらゆらと凪いでいた。
(もうすぐだ…。もうすぐ、返してやれるだろう――。)
鯉の体色の赤と白と金が、水面下で歪んで揺れていた。
(20)
「ねー、センセ。次はどこ行くの?」
後ろから進藤が突っついてくる。麻のジャケットの袖が、背中を引っ張られた拍子にピンとつった。
結局、通夜の日から何も言えないでいた。
たった一言か二言だ。それが言い出せないでいた。
部屋では言えなかった。
”した後で言っても説得力がない”と言われたことが過去に何度かあった。
やはり部屋で言い渡すのは気がひけて、外へ進藤を連れ出すことにした。
「スパゲティもいいけどさー、オレやっぱり…」
丘の上に建っているレストランから、駐車場へ降りてくる階段で進藤がもぞもぞと言っている。
ラーメンやファーストフードは御免だった。
「進藤、あのな…」
振り返って、思わず息をのんだ。
階段の段差のせいで、進藤の顔が自分の顔と同じ高さにあった。
色素の薄い丸い瞳が陽光の中でじっとこちらを見つめている。
階段の脇の片側にだけ植えられた並木の影と、日向の境目で顔色が分かれていた。
少し風が吹いているのか、前髪が僅かに揺れてその髪が目に入りそうだった。白いコンクリートの階段に落ちた並木の影が、そよそよと揺れている。
鼻の頭には汗が少し滲んでいた。
「なに――?」
スパゲティのソースの色が薄く残っている紅い唇が動いた。
立っている時に進藤の顔が目の前にあるのは初めてだった。
顔に落とされた、葉と日光とでまだらになった木の影が揺れている。
その度に薄い色の目の瞳孔が、僅かに閉じたり開いたりした。
「いや…何でもない…」
前を向くと、車のキーを取り出した。
(何をしているんだ…オレは……)
キーを握り締めると早足で階段を降りきって車に向かう。
結局、その日も言い出せないままで終った。
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