光明の章 16 - 20
(16)
ヒカルはその時、ブロック塀を背にしてじっと蹲っていた。
足手まといだと言われて仕方なく逃げたものの、
やはり加賀を置いては帰れない。
結局、道路を10メートル程走ったところで立ち止まり、
すぐに逃げると言った加賀を待った。
「──加賀」
暗闇に呼びかけても返事はない。誰かが来るような気配すら感じない。
ヒカルは込み上げてくる不安を打ち消すように、皮ジャンをギュッと握り締めた。
──どうしよう?戻ろうか?
だが、そうされることを加賀は望んでいない。
戦力外だとはっきり宣告された今、こうしてただおとなしく加賀を待つより他はないのだ。
ヒカルは観念して目を閉じる。
膝を抱えて待つ1分1秒が、とてつもなく長い時間のように感じられる。
パァァン!!
尋常でない音がヒカルの耳に届いた。
「!」
嫌な予感に突き動かされたヒカルは、加賀のいいつけを無視して現場に舞い戻った。
ガソリンのような異臭が道路にまで漂い、ヒカルの不安をよりいっそう掻立てる。
「加賀?」
ヒカルの目に、衣服を燃やされ半狂乱になっている男の姿が映った。
その人物が加賀ではないことにヒカルは安堵しかけ、すぐに思い直した。
加賀も同じ場所にいたとなると、似たような衝撃を受けているはずだ。
もしかしたらひどく負傷した状態で、どこかに倒れているかもしれない。
ヒカルは恐怖に慄いた。手足がどうしようもなく震えて、一歩も動けない。
──どうしよう、オレのせいで加賀が……。
持てる力を振り絞ってヒカルは叫んだ。
「…加賀!早く出てきて!返事してよ!加賀、加賀ぁ!」
「うっせぇな、一度呼べばわかるんだよ」
ヒカルの背後から、飄々とした声が聞こえた。
「待たせたな。帰ろうぜ」
自分の左肩に置かれた加賀の手を、ヒカルは無言で握り締めた。
手の甲に火傷したような跡がある。
さらに手のひらには深い切り傷があり、固まった血で茶色く染まっていた。
「ごめん、オレ……」
他にも傷を負ったであろう痛々しい加賀を直視することが出来ず、
ヒカルは泣きながら、いつまでもその手をさすり続けた。
(17)
目覚めると、そこは見知らぬ部屋の中だった。
点けられたままの豆電球が、この狭い部屋の隅々をオレンジ色に染めている。
ヒカルはしばらくぼんやりと天井の木目を眺めていたが、
ふと我が身に起こった忌まわしい出来事を思い出し、寝かされていた布団から飛び起きた。
その反動で背中と腰に電流が走る。ヒカルはその痛みに眉を寄せた。
気付けば、全身が寝汗でびっしょりと濡れている。
ヒカルは額の汗を自分の袖で拭うと、改めて部屋の中を見回した。
家具と呼べるものは机と小さな本棚くらいしかない。
壁に取り付けられたハンガーに掛かっているのは、某有名高校の制服だ。
それを見て、ヒカルはこの部屋の主が誰かを知った。
ヒカルは立ち上がり、そっとふすまを開けた。
二間続きの造りなので、開けるとすぐに次の部屋に出る。
そこに部屋の主はいた。横になり、どうやらビールを片手にテレビを観ているようだった。
ヒカルはおずおずと声をかけた。
「……加賀…」
「ん、ああ。起きたのか」
加賀はヒカルを振り返りもせず、バスルームを指差して言った。
「フロ入ってさっぱりしてこい。着替えも何か置いてあるだろうから、適当に着ろ」
「…うん」
ヒカルは素直に従った。
聞きたい事は山ほどある。だが今は、身に纏わりついた悪夢を洗い流す事が先決だった。
脱衣所で服を脱ぐ。パーカーもズボンも土に塗れ、不自然に汚れている。
もしこのまま洗濯に出せば、きっと母親は鬼のように怒り、汚した理由を尋ねるだろう。
ヒカルは服を家に持ち帰らず、全部処分しようと心に決めた。
気鬱なまま浴室に入り、シャワーのお湯を目いっぱい出す。
立ち上る湯気の中、ヒカルは長い間何もせず立ち尽くしていた。
身体に散らばる陵辱の跡が、上気した肌にくっきりと浮かび上がる。
ヒカルは壁に手をつき、目を閉じて何かに耐えていたが、
やがて躊躇いがちに双丘に右手を伸ばすと、己の内部に指を挿入した。
「……くぅ…」
瞬間全身が粟立ち、ヒカルはそのままガクンと膝をついた。
腰を浮かせ、額を壁にこすりつけながら辛抱強く中を探ると、
憎き男に放たれたままの欲望がヒカルの指に触れた。
白濁とした淫が指に絡みつくドロリとした感触。
ヒカルはなんとかそれを掻き出し、シャワーを当てて洗い流した。
こんな風に後始末をするのは初めてではないが、
さらなる嫌悪感にどうしても涙が溢れてくる。
ヒカルの嗚咽はシャワーの音にかき消され、加賀の耳まで届くことはなかった。
(18)
1時間後。
バスルームから出てきたヒカルを見るなり、加賀は腹を抱えて爆笑した。
「なんだよ、お前、そのカッコ」
「置いてあるのを適当に着ろって言ったの、そっちだろ!」
バスタオルで髪を拭きながら、ヒカルが頬を膨らませる。
浴室でひとしきり泣いた後、ヒカルは念入りに身体を洗った。
湯舟にゆっくり浸かると、張り詰めていた緊張感が足の先から徐々にほぐれていく。
気持ちも大分落ち着いたのでいざ着替えようと脱衣所の棚を物色してみると、
驚いた事にバスタオルと浴衣しか見当らない。
そういえば後姿しか確認出来なかったが、加賀も柄入りの浴衣を着ていたような気がする。
ヒカルは仕方なく、一番上にきちんと折り畳んで置いてあった藍色の浴衣を手に取った。
浴衣を自分で着た経験など一度もないが、
いつまでも下着姿のままではいられないのでとにかく袖を通してみた。
そばにある紐のようなもの──すなわち帯を自己流で腰に巻く。
鏡を覗くと、少し大人びた自分が映っていた。
たとえ左前だろうと、おまけに裾の後ろをかなり引き摺っていようとも、
ヒカルは初めての浴衣にご満悦だった。
しかし加賀はそんなヒカルの気持ちなど知る由もなく、呆れ顔でヒカルに手招きした。
「ったく、浴衣も一人で満足に着れねぇのか、お前は」
渋々と目の前に立ったヒカルの帯を、加賀は前ぶれなくいきなり解いた。
「!?」
「両手を真横に伸ばしとけ」
ヒカルは言われたとおり水平に腕を伸ばした。
その肌にはまだ、許しがたい痕跡が点々と残っている。
加賀はそんなヒカルを痛ましい思いで見つめながら、体裁よく浴衣を着せてやった。
藍で染めた浴衣には小さな白い花絞が入っていて、小柄なヒカルにとても良く似合っている。
「こうやって着るんだ。よく覚えとけよ」
「…わかった」
ヒカルの帯から手を離した加賀はその足で台所に向かい、
冷蔵庫から発泡酒の缶を2本取り出してヒカルに掲げて見せた。
「お前も飲むか?」
ヒカルは一瞬躊躇したが、飲めない訳ではないので大きく「うん」と頷いた。
加賀は円卓の上に発泡酒を置き、ここに座るようヒカルを促した後、
自分はその横に胡座をかいて早々と発泡酒に口をつけていた。
ヒカルも倣って缶を開けた。
一口飲むと心地よい清涼感が勢いよく体内に流れ込んでくる。
風呂上りは格別と言うが、まさにその通りの旨さだった。
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加賀は発泡酒を片手に言った。
「お前の家には、今夜筒井の家に泊まるって連絡入れてあるからな」
「筒井さん?どうして?」
「筒井に電話して、そういうことにしてもらったんだよ。筒井は囲碁部の
先輩なんだから、久しぶりの再会でそのまま泊まったって不自然じゃないだろ。
つうか、そもそもオレ、お前の家の電話番号なんて知らねぇし」
「…わざわざごめん」
「オレんとこがイヤなら、マジで筒井の家に泊まってもいいしな。好きにしろ」
「いいよ、ここで。それより加賀、一人で暮らしてるの?」
ヒカルは気になっていた事を率直にたずねた。
江戸間六畳の部屋が二つと、風呂と台所。他に人のいる気配はない。
加賀もアキラのように親元を離れて生活しているのかと思いきや、
意外な答えがかえってきた。
「残念ながら一人暮らしじゃねぇよ。ここは元々じーさんの隠居部屋なんだ。
そこの戸を開けると母屋に繋がってる。飯は朝晩母屋で食って、それ以外は
この部屋で将棋指したり、テレビ観たり、気楽にやってるぞ。うるさい親父も
ここまでは来ねーし、おかげで誰でも連れ込み放題だ」
冗談めかして笑う加賀のこめかみには、殴られて出来た内出血の跡がくっきりと残っている。
口の中でも切れているのか、酒を飲むたびに痛む様な表情をする加賀を、
ヒカルは沈痛な面持ちで眺めた。
自分のせいで、加賀は傷を負ったのだ。その懺悔の念で胸が苦しくなる。
そんなヒカルの様子に気付いた加賀は、苦笑混じりに言った。
「それよかお前、飲み終わったらもう寝ろ。寝て全て忘れちまえって言うのは無責任に
聞こえるかもしれないが、起きて延々悩むより、よっぽど建設的だ」
空になった缶をテーブルに置いて、加賀は灰皿を引き寄せた。
そしてタバコに火を点け、ふと、思い出したようにヒカルを見た。
「…前にこんなことあったな。お前にタバコの吸い方教えてやったんだよなぁ、あの時」
「覚えてるよ」
火気厳禁であるはずの理科準備室で、一人隠れてタバコを吸っている加賀に遭遇したヒカルは、
興味本位で吸い方を習ったのだった。だが結局それっきりタバコを吸う機会には恵まれず、
アキラのアパートで吸ったのが記念すべき2本目だった。
「吸うか?」
箱ごと差し出され、ヒカルはしかめっ面で首を横に振った。
「……その様子じゃどっちも上達してねぇな」
実はタバコだけでなく、その時キスのやり方も教えてやったのだが、囲碁中心の生活では
そっち方面を鍛えるのも無理な話だなと加賀は小さく笑う。
「オレ、出来るよ」
ヒカルが加賀の目を見てきっぱりと言った。
何をと加賀が問うより早くヒカルは加賀に顔を寄せ、その唇にキスをした。
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お互いの身体がぶつかった反動で、タバコの灰がぱらぱらと畳の上に落ちた。
急なアクションにいまいちヒカルの真意をつかみきれない加賀は、
吸いかけのタバコを手に、しばらくはヒカルの好きなようにさせていた。
軽いキスの後、ヒカルは照れてすぐに体を離したが、
また惹かれるように加賀の傷に触れ、そこに慈しむようなキスを施す。
次に加賀の手を取り、裂傷のある手のひらにも優しく唇を落とした。
まるで、そうすることが加賀に対する償いであるかのように。
「──進藤」
先ほど素早く唇を掠めていったヒカルのキスは、キスというより偶発的な事故のようだったが、
今自分に触れてくる指は、明らかにヒカルの強い意思を感じる。
見透かされているかもしれない、と加賀は思う。
口には出さないが心の奥にしまい込んでいる、
そんな目に見えない何かを、こいつは敏感に察知している…?
加賀はタバコの火を灰皿でもみ消すと、ヒカルの両肩を掴んで言った。
「いいから、もう寝ろ。軽々しくキスなんかしやがって、オレをそんなに信用すんな」
「…だって、」
「オレはこっちに布団敷いて寝るから、お前あっちの部屋に行け」
加賀はヒカルの側から離れ、隣室の押入れから布団を運ぶと、
それをテレビの前の空いたスペースに乱暴に敷いた。
ヒカルの反応を無視して、部屋の電気を勝手に消す。
「…寝るからな」
テレビの電源も落とした。
その場に放置されたヒカルは、横になったまま動こうとしない加賀の背中をじっと見つめていたが、
どんどん膨れあがる感情に後押しされ、思い切って加賀の腕に手を伸ばした。
「…だったら淋しそうに笑うなよ…」
消え入りそうなヒカルの声が加賀の胸に沁みる。
“淋しそう”とヒカルは言った。
週末の夜、一人の時間を持て余し、毎週筒井を呼んでしまう自分。
それを淋しさ故の行為と自覚する事は、筒井に申し訳ない気がする。
加賀は身を起こし、自分の腕に置かれたヒカルの手を引いた。
小さな身体が加賀の両腕にすっぽりと収まる。
「………」
どんな暗がりにいようと、淋しくなんかないと嘯くことは出来る。
だが、目の前に差し出された灯火を拒めるほど、加賀は強くはない。
加賀の腕がヒカルをきつく抱きしめる。
腕の中の温もりを手放しがたくて、どうしても指がヒカルを求めてしまう。
ヒカルは目を閉じ、加賀の背中にそっと自分の腕を回した。
加賀は堪えきれずに、無防備なヒカルの唇を奪った。
それはヒカルの知るどんなキスよりも切なくて、誰よりも激しいものだった。
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