敗着─交錯─ 16 - 20
(16)
冷蔵庫を開けて中身を眺め、しばし考えこんだ。
食料が荒されているのには慣れたが、今日は高い方のチーズが消えていた。
(中学生が好む味とも思えないが…)
酒を保管しているサイドボードの所へ歩いて行き、ガラス戸をチェックする。
光の当たる角度を変えて見て、ベタベタと指紋が付いていないかを確認した。
(ここが荒されるのも時間の問題だな…)
その中のしばらく開けていない瓶に目がとまった。
――飲みすぎは体に毒です
抑揚のない声が不意に蘇った。
照明を抑えた室内。日に焼けていない白い素肌が暗闇に浮かび上がっている。
自身の前のグラスにも並々とブランデーを満たし、浮かべた氷を気だるそうに指でクルクルと回しながら微笑む。
――少し控えて、自愛なさってください。
そう言ってクイと一口含むと、口の端から僅かに垂れた酒の雫を指でゆっくりと唇に塗り、小さく舌なめずりをする。
その蠱惑的な表情にゾクリとして息を呑んだ。
それを察したかのように少年が覆い被さってくる。
割り入れられた舌と口腔に滲んで広がるブランデーの味。指を通すサラサラとした髪の感触。
(過ぎたことだ――)
脳裏に焼き付いたシーンを振り払い、思い直して冷蔵庫の前に戻ってもう一度開けた。
「あ、」
(あいつ、捨てたな)
「先生、チーズ腐ってたから捨てといたよっ」
夕方どかどかと踏み込んできた進藤が、尋ねる前にしゃあしゃあと答えてくれた。
「あれはブルーチーズと言って、あの状態が普通なんだ」
「でもカビ生えてたよ」
最近は、この手のことで問答をするのがバカバカしくなってきたのでもう何も言わなかった。
「、――?」
足の裏にじゃりじゃりとした感触が当たるのに気がついた。
見ると放り出された進藤のリュックからのぞいた布の端に、僅かに砂が付着している。
「お前、この砂…」
「ああそれ、体操服。今日体育の時間に幅跳びの測定あったから」
テレビをリモコンでザッピングしながら悪びれもせずに返事をする。
嫌な予感がして玄関を見に行くと、無造作に脱ぎ捨てられた靴の跡には砂が散っていた。
「……」
文句を言う気力も無くして、きちんと揃えられた革靴をぼんやりと思い出した。
(アキラは…特殊な部類の中学生だったんだな…)
礼儀正しい所作と言葉遣い。寝そべってスナック菓子をつまんでいる進藤とは似ても似つかなかった。
(――こいつ、アキラとはまだ寝てるのか?)
(17)
(遅くなったな…)
進学校らしく一学期に体育祭を行う海王中学は、ささやかながらも盛り上がっていた。
学級会が長引きアキラは急いで校門を出た。
腕時計に目を遣り、ふと考えた。
この時間になら…。
校門から桜並木を両脇に配し、校舎に向かって階段が続いている。
(昔来た時は満開だったっけ…)
遠い日の記憶に思いを馳せる。
今はすっかり葉桜になってしまった桜並木を、ぼんやりと遠くから眺めていた。
すると、何人かの生徒がばらばらと階段を降りてきて、校門から散り散りに下校していく。
「じゃあなー、また明日な!」
(あ……!)
その中の一人に目が釘付けになった。
「進藤…!」
夕日に照らされた歩道を進藤が歩いている。
この時間になら、会うこともないだろうと思って葉瀬中に来たのだ。
それなのに…
嬉しさと動揺で鼓動が速まった。
正直、顔を合わせるのは恐かった。二人の間にあるわだかまりは大きすぎた。
それでも胸は高鳴っていた。
道路の反対側から目立たないように後を尾ける。
(歩くの速いんだな…)
僅かに息が切れてきた。
角をいくつか曲がり、周囲に葉瀬中の生徒がいなくなったのを見計らって歩を速めた。
(進藤…進藤…)
「進藤!」
(18)
「…?」
立ち止まったヒカルが声のした方向を探し、後ろを振り返った。
「わっ…!塔矢!?」
「進藤、あの、久しぶり…」
呼吸を整えながら挨拶をする。
「塔矢…おまえ、…」
驚いたようなうろたえたような進藤の表情は、何と表現していいか分からなかった。
「驚かせたことは謝る、進藤、ボクは…。キミと二人だけで話がしたくて、こんなことを…」
後が続かない。速まる心臓の音だけが胸に当てた手に伝わってくる。
「進藤、あのっ」
「ゴメン!」
急にヒカルが踵を返し駆け出した。
「進藤っ!!」
一瞬遅れてスタートを切ったが、みるみるうちに引き離されていく。
(…進藤!)
やがて後姿を見失い、追うのをあきらめ立ち止まると、肩で息をしながら考えを巡らせた。
(なぜだ…)
電信柱に寄りかかり、深呼吸をして一息ついて辺りを見回した。
「あ…」
帰り道がわからなくなっていた。
「塔矢…ごめん…」
突然の出来事に面食らい、ろくに話しもせずに逃げ出したものの、後ろめたさを感じて夕暮れの街を彷徨っていた。
(アイツはオレを追ってくれてるけど…)
真摯な自分への気持ちが痛いほど伝わった。
立ち止まって、残照に彩られた空を仰いだ。
―――とりあえず、先生の所へ行こう
緒方先生のそばに、いたかった。
(19)
暗闇の中で振り子が規則正しい音を刻んでいる。
アキラの頭は冴えていた。
進藤との再会に興奮して寝つけないでいる。
振り子が時を刻む音に、自分の心音も呼応しているようだった。
振り子の音が一瞬消えたかと思うと、一呼吸おいて
「カーン、カーン…」
鐘が鳴った。
先程の興奮はまだ冷めやらなかった。
短い時間ではあったが、進藤に会えた。
その嬉しさで布団に入ってもワクワクとした気分は続いていた。心地の良い高揚だった。
だけど――、
振り返ったその一瞬は、確かに真正面から進藤を捕らえた気がした。そして、その一瞬だけだった。
あとはずっと視線がかみ合わず、進藤が目を合わさないようにしていることに気がついた。
―――決定打だった。
もしかすると、あれは緒方がほんの冗談で言ったことではないかと、心のどこかでクモの糸のような望みを託していた。
きつく目を閉じ、握り締めた手を瞼に押しあてる。
緒方が自分と引き換えに進藤を抱いたことは、自分と進藤との間に消すことの出来ない傷痕のように横たわって二人を隔てていた。
進藤の顔を見たとき自分は、何も言えなかった。
胸が一杯になったのと、彼を責めたい気持ちで張り裂けそうだった。
どうしてあんなことをしたのだ、と。
キミはボクにとってかけがえのない存在だ。
(……ボクなんかのために、進藤―――)
寝返りを打つと、枕に深く顔を押し付けて涙を受け止めた。
「進藤…ボクは…君に…すまない―――」
(20)
暗がりの中で目が覚めた。少し寝ていたようだ。
体の上に横たわる重みを感じて、なぜかホッとした。
漏れる吐息と、時折しばたかれる睫毛が皮膚に当たってくすぐったい。
「…考え事か?」
「…うん」
ぼんやりとした声が返ってくる。
時計を見て軽く頭を突ついた。
「…?」
「服を着ろ、帰る用意をするんだ」
慎重に腕枕を外すと体を起こし、枕元に置いてあった腕時計をはめる。
「どうして…」
気分を害したと言わんばかりに体を起こすと不満げに抗議する。
「ここのところずっと外泊してる。今日は帰った方が良い」
「……」
面白くなさそうに口を尖らせ横を向いていたが、ぽてっと横に倒れるとうかがうようにこちらを見てくる。
「駄目だ、言うことを聞け。服を着てこい」
「…何でだよ」
「何でもだ」
(今日は聞き分けが悪いな…)
しばらくムクレていたが、もそもそと毛布の中に潜りこんでいき、
「――っ何してるんだ!」
モノに息が吹きかかった。
「何って…いつもしてもらってること」
慌てて腕を掴み引きずり出すと、毛布から顔だけを出して悪戯っぽい目で答える。
「しなくていい!お前はっ!」
「いいよ、遠慮しないでよ」
また潜っていこうとしたのを引きとめると遠慮がちに問いただした。
「どうしたんだ…?何かあったのか?…今日のお前、様子が変だぞ」
「…別に、何も…」
と言ったきり黙ってしまった。口を固く結び、それ以上は答えたくないようだった。
「……アキラか?」
弾かれたように顔を上げた。
(図星か…)
「…違うよ」
しばらく二人で向き合っていた。
暗がりでも分かる真っ直ぐな眼差しが愛しかった。
|