日記 16 - 20
(16)
和谷のアパートの前まで、とりあえず来てみたものの、ヒカルはまだ躊躇っていた。
何度もノックを仕掛けては、手を下ろすを繰り返した。やはり、帰ろうと踵を返しかけたとき、
不意にドアが開き、中から和谷が飛び出してきた。
「あれ?進藤、来てたのか?何やってんだ入れよ。」
「和谷…どこかに行くの?」
ヒカルは、突然現れた和谷に狼狽えながら、訊ねた。
「ああ。飲み物足んなくてさ。買ってくる。」
「じゃあ…じゃあ…オレも行くよ。」
慌てて後を追いかけてくるヒカルに、和谷はちょっと驚いたようだが、すぐに破顔した。
二人で並んで歩く。ヒカルは、アパートに残るのが怖かった。自分にキスをした相手が
誰だかはわからないけど、あの中にいるのだ。そして、それは、和谷ではないような気が
していた。いや、そうでなければいいと言う希望だ。和谷はヒカルにとって、いい友人で、
頼りになる兄貴分だった。
でも、そんなことを言ったら、勉強会のメンバーはみんなそうなのだ。優しくて、頼り
になる先輩達。だからこそ、よけいにヒカルは混乱してしまうのだ。
(17)
和谷は、ヒカルの様子がいつもと違うのが、気になった。自分の横を俯いて歩くヒカルを、
あらためて和谷は見た。目線が和谷より少し下にある。初めて会ったときは、もっと
小さかった。あのころよりずっと身長は伸びたが、その分自分も成長しているので、
いつまでも、差は縮まらない。和谷にとってヒカルは可愛い弟分で、面倒を見てやるのが
とても楽しかった。
だが、いつの頃からかその感情に別のものが、混じっていることに気がついた。生意気で
やんちゃなヒカルの表情に、何とも言えない憂いを見つけたからだ。ふっくらとした頬も
小さかった手も、子供子供していた全てのものが、気がつけば、すっきりと大人のそれに
変わっていた。やせた頬、繊細な首筋、長く伸びた手足、変わらないのは、零れそうに大きな
瞳と人懐っこい仕草だけだ。それでも、それは、可愛がっていた弟が、いつの間にか、
大人になっていたと言う感傷の域を出ていない。少なくとも、和谷自身はそう思っていた。
あの時まで……。
(18)
視線を感じて、ヒカルが顔を上げた。その瞳に、和谷の心臓がドキンと鳴った。目を
逸らして、胸の動悸を聞かれないようごまかすように言った。
「なぁ。先週、何で帰っちゃったんだ?朝、お前がいないからびっくりしたぜ。」
ヒカルの身体がビクッと震え、視線が空を彷徨った。
「あ……お母さんに早く帰るように言われてたの忘れてて……」
「でも、早朝黙って帰らなきゃいけないのかよ?」
「………」
和谷の問いかけに、ヒカルは黙り込んでしまった。再び、俯いて、目を半分伏せた。
その頼りなげな横顔に、和谷の視線は釘付けになった。
見とれている和谷の方を見ずに、ヒカルが顔を上げた。
「和谷……ゴメン……オレ、やっぱり帰る…」
絞り出すように言うが早いか、ヒカルは、走って行ってしまった。
その走り去る背中を和谷は黙って、見送った。だんだん小さくなるヒカルが、完全に
見えなくなるまで、そこにじっと立っていた。
和谷が、アパートに帰ったとき、ほぼいつものメンバーがそろっていた。伊角が声を
かけた。
「おかえり。まだ、進藤来てないぜ。」
「進藤さあ…さっき、来てたんだけどさ…何か、帰っちゃったんだよね。」
「帰ったって…なんで?」
「知らねえ……」
和谷の素っ気ない返事に、伊角も他のメンバーも不思議そうな顔をした。
(19)
勉強会をさぼったので、時間が余ってしまった。アキラは、ヒカルが和谷の勉強会に
毎週行っていることを知っているので、今日はいないかもしれない。それに、アキラに会ったら、
自分の動揺を悟られそうだと、思った。アキラには知られたくなかった。
だが、かと言って、このまま家に帰りたくない。自分でも情けないが、こんな時、やっぱり
頼りにしてしまうのは緒方だった。アキラ以上に忙しい緒方が、家にいる確率は少ないが、
とりあえず、行ってみようと思った。
幸いなことに緒方は、外出してはいなかった。が、緒方は、ヒカルを招き入れながら、
きっちり一言釘を刺した。
「どうして、お前はいつも突然やってくるんだ。自宅の番号も携帯の番号も渡してあるだ
ろう?」
「次からは、連絡無しに来ても入れないからな。」
もっともらしく蹙め面を作って見せながらも、口調は軽い。
ヒカルは、何だか安心して、さっきまで、全身を覆っていた緊張がほぐれていった。
「ごめんなさい。」
ヒカルは、一言謝ると、さっさと奥の部屋に行き、水槽の前に立つ。
「お前は、俺に会いに来たのか、魚を見に来たのかわからんな。」
緒方は、溜息混じりにあきれたようにヒカルを見た。
(20)
緒方は、ヒカルに「何の用事か」とは、聞かなかった。ヒカルがこんな風に自分のところに
くるときは、大概、自分の感情を持て余しているときが多いことを、知っているからだ。
水槽を見つめたまま、ヒカルが不意に話しかけて来た。
「先生…オレさあ…ちょっと前から日記をつけてるんだ…」
「日記?お前が?ハハハ…」
如何にも、らしくないという風に笑う。本気で笑いたかったわけではない。ヒカルが
それを望んでいたような気がしたからだ。緒方にしろ、アキラにしろ、ヒカルが元気のいい
明るいだけの少年ではないことを知っている。その外見とは裏腹に、繊細で傷つきやすい
魂を持っている。以前は、そうでもなかったが、ある時期を境にヒカルは急に変わった。
手合いを休み続けた間に、何かがあったのだろう。
だから、緒方はことさら大げさに笑って見せた。
「ひでえ!」
ヒカルも笑った。
「ハハ…せいぜい、三日坊主にならないようにな…」
「ならねえよ。もう二週間以上も続いてるんだから…でも、塔矢には内緒にしてくれよ。
やっぱ、途中で投げたらかっこつかないしさ…」
緒方は黙って頷いた。笑っているヒカルの横顔を眺めながら、緒方の心は少し複雑だった。
こんな風に頼ってくれるのはうれしいが……。だが、無邪気に甘えてくる無防備な
ヒカルの姿を見ていると…………自分でもあきれてしまう。
緒方は、一つ首を振ると、ヒカルために紅茶を入れるべくキッチンへ向かった。
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