パッチワーク 16 - 20
(16)
昼前、受付より森下先生がいらしたと連絡が入った。
母に頼まれ受付まで先生をお迎えに行った。
久しぶりにお目にかかってひどくおやせになっていて驚いた。
三星火災杯の準決勝の前の晩「森下先生、胃ガン摘出手術成功」の連絡が入りヒカルが安心していたのを
思い出した。対局の後で森下先生の手術が話題になり手術のことを知らなかった父がヒカルの部屋に話を
聞きに来た。そして部屋の状態から父は僕らのことに気が付いた。その場では何も言わなかったが僕が
自分の部屋に戻ると父から部屋に来るようにとのメッセージがあった。このとき母は用事があり日本に
残っていたのは幸いだった。父は奥歯に物が挟まったような言い方で僕とヒカルのことを聞いてきた。
普段このような話し方をすることがない父だけに僕は後ろめたさを隠すために口調が荒くなってしまい、
父の話の途中で部屋を出てしまった。翌日の決勝、僕は父に完敗した。そして父は発作を起こした。
それからのことは切れ切れにしか憶えていない。気が付いたときは病院で芦原さん夫妻が病室にいてくれた。
市河さん(芦原夫人)が言うにはヒカルが僕の部屋を訪ねたら僕が倒れていて救急車を呼んでくれたらしい。
それ以来ヒカルに会っていない。そして、僕が何より驚いたのは帰国してから入院するまでの4ヶ月の間も
手合いには休まず行っていたらしいがその記憶が残っていない、勿論棋譜もだ。昨日、その棋譜を
取り寄せてみたがあまりのひどさに赤面した。どれも、辛勝と言わずにはいられないような内容だった。
だから、ヒカルは僕をもうライバルだとは思わなくなったのだろうか。僕が彼に興味を持ったきっかけは
彼の碁であり謎めいた強さだった。でも惹かれたのは彼の明るさであり、無邪気さだった。だから彼と
碁のどちらかを選べと言われたら僕は彼を選んでしまうだろう。だが、彼にとって僕はまず碁のライバルで
あって、だから僕を好きなんだという。だから僕は彼に選ばれ続けるために碁を続けなくては行けない、
彼にライバルだと思われ続けなくてはならない。
森下先生にヒカルの様子を訊きたい。
でも、森下先生はひどく緊張された様子で話しかけられなかった。
(17)
部屋に戻り玄関のドアを開けると母が待っていた。
母は何かを言おうとしたが森下先生の様子を見るとショックを受けたのがわかった。
「明ちゃん、ひさしぶりだね。」
「行洋は部屋におりますのでご案内します。」
母の言葉が震えている。
僕は台所へ行き、お茶を入れると父の部屋へ運んだ。途中居間で母とすれ違った。
居間へ戻ると母が自分と僕のお茶を入れてくれていた。
ぼくは疲れを感じ少し横になることにし、お茶を持ち自室へ下がった。
母は窓から見える箱根の緑をぼんやりと見ていた。
隣の父の部屋からは二人の会話が漏れてくる。
「行洋、また中国に戻るのか。」
「明子に何を頼まれたんですか。」
ゾッとするほど冷たい声であった。
「また倒れたらどうするんだ。」
「もし、私が死んだとしても。あなたの望み通りでしょう。」
「私は最後まで碁を打っていたい。何を心配しているんですか。」
こんな父の声を聞くのは初めてだ。感情を殺したようなこんな声を。
「行洋」
「あのとき、私は碁ではなくあなたを選びたかった。」
「でも、あなたは私に選ばせてもくれなかった。」
「俺は」
「あなたが私より私の碁を選んだんですよ。」
「なのに、今度は私の碁より私を心配するんですか。」
父の声はまるで泣いているようにも聞こえた。
(18)
「最後に二人だけであったときあなたは私の碁が好きだと言ってくれた。」
「あなたとつながっているのは碁だけだから、私は碁が捨てられなかった。」
「いつも私は待っていた。でもあなたはリーグに上がる一戦になると凡ミスを重ね負けてしまう。
まるで、リーグ入りを、私を拒むように。」
「私はリーグであなたを待つのをやめた。あの時あなたが私に会いに来てくれてうれしかった。
でも、あなたが来たのは私が碁を捨てていないのを確認するためだった。」
「二人でいるところを鈴木さんに見られた後、あなたは私に心配するなと言いながら会ってはくれず、
でも頻繁に鈴木さんにあっていた。わたしは鈴木さんにあなたを取られると思っていた。そして
あなたは佐藤さんの妹と結婚して、私を捨てた。」
「鈴木さんが心配していたのは佐藤さんのことだ。自分の奥さんの弟だから。」
「佐藤さんがおまえに執着して当時の俺の隣の部屋を借りておまえが俺の部屋に来ると部屋の様子を
録音するように興信所に頼んでいた、おまえの尾行も。」
「テープや写真を棋院に送って、俺とおまえを除名させて。」
「そして、おまえに近づいて心中しようとしていた。自分以外の者がおまえのそばにいるのが許せない。
そういって」
「鈴木さんがそれを知って説得してくれた。だが、佐藤さんは条件を出してきた。」
「俺がおまえから離れること。それを確実にするために自分の妹と結婚すること。」
「妻は何も知らない。」
父が声を上げて泣いている。
それを慰めている森下先生の声。
「いいか、俺に会いたかったらいつでも呼び出せばいいんだ。」
いつの間にか寝てしまったらしい、森下先生の帰られる気配で目が覚めた。
(19)
森下先生がお帰りになるとき母が変なことを言い出した。
「森下のおにいちゃま、明子はちゃんと約束を守ったでしょ。」
「だからまた強羅公園に連れていってね。」
「ああそうだね、今度は鮭と塩昆布のおにぎりを持っていこうね」
父が合点がいかないような表情をしている。
森下先生が帰られたあと父が母に尋ねた。
「さっきのは一体」
「昔、昔の初恋の人との約束ですのよ。あら、ご存じなかったんですか。」
「姉が亡くなって私が寂しがっているからって森下先生が強羅公園連れていって下さったことがあるのを
憶えてらっしゃいます?私がまだ小学生で、あの時は森下先生がお弁当を用意して下さったけれど梅干しの
おにぎりだけで、私が鮭と塩昆布がいいってわがまま言って。あのとき、私一人で冒険に出かけて、園内を
一巡りして戻ってきたらあなたと森下先生が木の陰で抱き合ってキスしているのが見えましたわ。」
「そのあとでしたわね。あなたから森下先生がご結婚なさるからもう会えないと伺ったのは。森下先生は
私の初恋の人ですから、もう会えないなんていやですもの私は森下先生のお部屋に伺ったんです」
「そうしたら、森下先生に頼まれたんです。自分はあなたのそばにいることができなくなったから
あなたを守って欲しい。どうしてもだめなときは自分を呼んで欲しいって。私の出した交換条件が
もう一度強羅公園へ連れていって欲しい でしたのよ。」
「先生がまだ憶えてくださっているとは思いませんでしたわ。」
「いえ、森下先生にはあなたとのことは何であってもとても大事なことだったから
憶えていらしたんでしょうね。」
そして母は父にお茶を入れた。
父と母が昨日までとは違ってとても穏やかであることに僕は驚いていた。
(20)
その夜、僕は自問した。
僕は森下先生が父を守ったようにヒカルを守ることができるのか。
僕は今までヒカルが僕から離れていくことをおそれていた。
ヒカルを守るためならば自分からヒカルと離れることができるのか。
そして、自分をそして自分の碁を犠牲にしてまでヒカルを守ることができるのか。
僕は答えが出せなかった。
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