失着点・龍界編 16 - 20


(16)
二人はハッとなって緒方を見、お互いを名残り惜しむように目を合わす。
「いえ、ボクも帰ります。仕事がありますから…。」
アキラが迷いを振り切るようにしっかりした口調で答える。
ヒカルにしてみてももうすぐ母親が様子を見に来る。
母親は失踪の件で多少ナーバスになっていて、アキラと会わせる事は出来な
かった。アキラが首謀者では決してない事はヒカルが何度も説明したが、
心のどこかで“元名人の息子の気紛れに付き合わされた”という感が拭えない
らしい。それはアキラの母親の方も同じだった。そういうものらしい。
父親同志の方がむしろ互いの愚息の事を謝罪し合っていた。
それでもやはり、アキラとの個人的な接触は固く禁じられた。
アキラの父親、塔矢元名人に対してヒカルは申し訳ない気持ちで一杯だった。
だがアキラの話では、元名人はアキラに対して何も言わなかったと言う。
一緒だったのがヒカルと言う事に納得しているようだったと。
むしろ、自分の名の元にアキラに過度に重圧がかかっていたのではないかと
いう事を謝ったのだという。そんな父に対し、アキラも今後はそれこそ
今まで以上に囲碁に取り組むと約束した。
緒方もそうした事情を分かっていた。それだけに今回はわずかでも二人を
会わせてあげられたらという配慮をしてくれたのだ。

病室に戻る為にヒカルがベンチから立ち上がろうとし、一瞬よろけた。咄嗟に
緒方がヒカルの腕を掴んだ。その時ヒカルの脳裏に夕べの感触が蘇った。


(17)
大人の男の力で腕を掴まれた感覚。和谷と伊角との一件もまだ完全には体から
消え去ってはいない。思わずヒカルは緒方の手をサッと振りほどいた。
「進藤、大丈夫?」
アキラはそれに気が付かずヒカルの腕を反対側から支えて来た。
「う、うん。ありがとう…。」
「顔色が悪いよ…。…無理させてごめん。」
連れ立って歩く二人の後ろ姿を緒方は見つめる。緒方はアキラと会話を交わ
していた時点からヒカルの様子がおかしい事を敏感に感じ取っていた。
眼鏡の下からヒカルの右手首の不自然なリストバンドに鋭い視線を送る。

母親が病室に来ているかもしれなかったので1階のロビーで二人と別れた。
本当ならアキラとは今日の手合いの後こっそりどこかで待ち合わせをして
ゆっくり話をする約束をしていた。
それを守れなかった事を謝った。アキラは優しく笑んで首を横に振った。
次に会う約束は出来なかった。アキラの方も、学校と棋院会館以外の時間を
殆ど自宅か碁会所で過ごすようにと決められていたからだ。
「あ、そうだ、携帯…」
アキラとの別れ際にヒカルは大事な事を思い出しアキラを呼び止めた。
苦く胸にのしかかっている一件だ。
「携帯?ああ、ボク、何度も進藤に電話やメール送ったんだよ。」
「なくしちゃったんだ、ゆうべ…。ごめん…。そっちに何か変なの来て
いない?」
病院の玄関を出たところでアキラはベルトに着けていた携帯を外して開き、
オフにしていた電源を入れてみる。ヒカルは息を飲んで見つめた。


(18)
「いや、今のところ何も…でも、どうして?」
ヒカルはホッと息をついた。
「ううん、だったらいいんだ。」
後にこの中途半端な会話をした事をヒカルは死ぬ程後悔することになる。

ヒカルと別れ、アキラは駐車場の緒方の車の助手席に乗り込んだ。
ヒカルとの関係の事は知らなかったが、アキラは緒方が自分とヒカルとの事に
深い理解を示してくれている事は強く感じていて嬉しく思っていた。
だが、だからと言ってあまり緒方に甘えるべきではないと考えていた。
ヒカルと堂々とみんなの前で会う為にも、強くならなくてはいけない。
周囲を説得するにはそれしかなかった。その第一歩が今日のはずだった。
病院を離れる時は体が二つに引き裂かれそうだった。
「…進藤…」
助手席で病院の方角から視線を動かそうとしないアキラを緒方は悲痛に思い
横目で見遣った。

ヒカルが病室に戻ると母親が心配そうに椅子に座って待っていた。
「緒方さんともう一人お見舞いに来た人と出て行ったって聞いたけど、
どなた?…まさか…」
「違うよ、わ、和谷だよ。」
伊角の名を出そうとして、ヒカルは変更した。伊角だったら直接挨拶に
来るに違いないと母親が勘ぐると思ったからだ。何も知らない母親にとっては
アキラより伊角や和谷の方が信頼出来る対象なのだ。


(19)
次の日、前日に続いていろいろな検査を終え、ヒカルは病室に戻ろうとした。
すると廊下の長椅子に緒方が座って待っていた。
「ちょっといいかな、進藤…」
ヒカルはかつて見た事がある緒方のその視線にため息をついた。
…やはり、この人だけは誤魔化す事が出来ないかったか…。そう思ったのだ。
緒方はヒカルを人が来ない屋上に連れて行った。
「…何があった。」
屋上の片隅で、タバコに火をつけながら緒方は尋ねて来た。ヒカルは唇を
噛んで、返事をする代わりに手首に触れた。
緒方はタバコを銜えるとその手を取り、リストバンドを下げた。細く白い
手首に禍々しく残った、指の痕のような痣。
「…相手は…?」
眼鏡の奥で、色の薄い瞳がさらに鋭さを増して光ったように見える。
ヒカルはただ、首を横に振るしか出来なかった。
「まさか、前と同じ相手じゃないだろうな。」
「違う…今度は本当に…知らない相手…。最後までやられたわけじゃ
ないけど…だけど…」
答えながら、あの時の恐怖が蘇って膝がガクガク震え、顔色が白くなって
行くのを感じた。そんなヒカルを見て、思わず緒方が肩に触れようと
するが、ヒカルは一歩下がった。
それを予測していたように緒方がされに足を踏み出し、ヒカルを捕らえて
しっかりと抱き締める。
緒方の大きな手が頭に乗せられ、長い指で髪を優しく梳かれると、
やがてヒカルは安心したように落ち着きを取り戻した。


(20)
「…警察に行くぞ。今度こそ…。」
感情を抑えた静かな口調程に緒方の怒りの激しさが示されていた。
「…それはできない…」
「どうしてだ」
「オレの友だちが…同じ中学の…そいつが…」
「いいから詳しく話せ。」
ヒカルは恐怖感に歯を食いしばり、つまりながらも夕べのあらましを緒方に
話した。途中で緒方はタバコを握りつぶし、話の続きを促す。ようやく解放
されてその後で事故に遭ったところまで話し、ヒカルは息をついた。
「…オレ、もう…アキラに会えない…」
「何故そう思う」
「だって…知らない奴のを口で…オレ…汚い…」
緒方がヒカルの顎を優しく持ち上げ、顔を寄せて来る。
「だ、ダメだよ、緒方先生…!」
ヒカルは緒方の意図を察して緒方の手から逃れようとする。
「お前は汚れてなんかいないよ」
緒方の唇がヒカルの唇を塞ぎ、ゆっくりと舌で中を辿る。
拒絶の反応を示していたヒカルも直ぐに体の力を抜き、緒方の
行為を受け入れる。
好きとか、そういう感情とは違う。アキラと交わすものとは異質の、
ただただ親愛のような、強くて深く温かいものを唇を通して
ヒカルは緒方から感じ、受け取っていた。



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