失着点・展界編 16 - 20


(16)
「和…谷…」
ヒカルが思わず声を掛けようとした。和谷は俯いたままだった。
「放っておけよ!あんな奴!!」
伊角に怒鳴られ、靴を履かされ、抱えられるようにしてアパートを出る。
何時間あの部屋にいたのだろう。外はすっかり暗くなっていた。
「…タクシー、捕まえないとな…。それとも救急車の方が…」
ようやく止まった涙の跡を袖で拭いながら心配そうに伊角が聞いて来た。
ヒカルはフッと笑うと、いらないというふうに首を横に振り、グッと伊角の
体を押した。
「…進藤?」
もう一度ヒカルは伊角を押す。一人で歩ける、という意思表示をしたのだ。
伊角から離れ、ふらふらと2、3歩歩いて、道路脇の壁にもたれかかった。
「無理するなよ、進藤…!」
手を出そうとする伊角を、ヒカルは手の平を見せて頑に拒んだ。
「オレよりも、あいつの…和谷のそばに居てあげてよ、伊角さん…。」
伊角は驚いたようにヒカルを見つめた。
「今助けが必要なのは、オレよりも、きっとあいつの方だよ…。」
そのヒカルの言葉に、伊角は迷ったようだった。玄関を出る時はあんな
突き放した言い方をしたものの、その事は伊角自身も感じていたのだろう。
両手を握りしめ、ヒカルの顔と、今出て来た和谷のアパートを見比べている。
「今、伊角さんの助けが必要なのは、和谷の方だよ…。」
それでも伊角は少し躊躇しているようだった。だが、
「…進藤、悪い…。オレはやっぱり和谷がほおっておけない…」
そういって引き返そうとした。
「伊角さん、一つだけ、和谷に伝えておいてくれるかな…。」


(17)
流し台にもたれかかったまま、和谷は座り込んだままだった。薄汚い包帯の
右手で伊角に殴られた右頬に触れる。視線を落とすと、進藤の血が混じった
粘液にまみれた自分のペニスが嫌でも目に入る。腿の内側にも赤黒く汚れが
あちこちに着いている。
「…あんなに、痛がっていたのに…。」
ついさっきまで、進藤はこの自分の体の下に居た。
嫌だったはずだ。塔矢じゃない、好きでもない男のペニスをケツの穴に
ぶち込まれるのだ。自分だったら耐えられない。
「あそこまでするつもりなかったのに…」
進藤は拒否すると思った。それが思いがけず『一度だけだよ』という合意を
得て、一瞬で理性が吹き飛んだ。
「…ちがう…、進藤の返事のせいじゃない…」
それだけ進藤は必死に塔矢を守ろうとしただけにすぎない。その事を感じた
だけに、余計腹が立ったのだ。
痛がって、怯え切って、泣きながら許しを乞う進藤をめちゃくちゃにした。
「最低なのはオレだ…!」
右手を握って振り上げると、流し台の下のトビラに激しく打ち付ける。
ドガッとトビラが内側にへこみ手から肘にかけて痺れるように激痛が走る。
「ヘヘッ…まだ痛みを感じやがる…。」
和谷はもう一度右手を振り上げた。すると、誰かにその手を掴まれた。
和谷が驚いて顔をあげると、いつの間にか伊角が近くに跪いていた。
「もうやめるんだ、和谷…。」


(18)
しばらく和谷は、伊角がここに戻って来た事が信じられない様子だった。
「何だよ…、てっきり進藤とよろしくやってんのかと思ったのに…あいつは、
ああ見えて抜け目ないから…」
パンッと伊角の平手打ちが左頬に来て、そのままグイッと右手をひっぱられ
立ち上がらさせられた。
「イテテッ…、伊角さんにしては珍しく乱暴だなあ。」
「甘えるのもいい加減にしろ!和谷!…とっとと服を着ろ!」
部屋の中へ突き飛ばされ、和谷はのそのそとジャージを穿いた。
「ッ…痛…」
右手に今までにない激しい痛みが走り、手首を押さえて座り込む。
「ヘへ…さすがにさっきの一撃でイッちまったかな…」
伊角がそばに座り、汚れた包帯をほどく。そして現れた手の様子を見て、
伊角は思わず顔を背けた。和谷の右手はところどころが赤く、青黒く腫れて、
皮膚が裂けて膿んでいるところもあった。小指は倍近く膨れていた。
「…進藤からの伝言がある、和谷…」
「何だよ。もう2度と顔を合わせたくないってか?」
「『病院に行って欲しい』って…。『碁石が持てなくなるから』って…。」
和谷の顔に張り付いていた薄ら笑いが消えた。
「それから…『和谷、本当に、ごめん』って…」
和谷は伊角の手から右手を振払おうとした。伊角は離さなかった。
「…うっ…」
和谷の両目から涙がこぼれ落ちるのと同時に伊角は和谷の頭を抱きかかえた。
伊角の胸に顔を埋めて和谷は大声を上げて泣いた。
「和谷…お前、…本気で…進藤のこと…」
胸が潰れるような思いで、伊角は泣叫ぶ和谷を抱き続けるしかなかった。


(19)
タクシーは、なかなか掴まらなかった。ガードレール伝いにふらふら歩く
ジーンズ姿の中高校生風の子供を嫌ったのかもしれない。ヒカル自身歩くのが
やっとで目ざとく走って来る空車のランプをうまく見つけられない。
そのうち面倒臭くなって来た。このまま歩けば駅まですぐだったが、もはや
家に帰る事自体放棄したくなっていた。
アキラのアパートも、アキラが居なければ何の意味も持たない空虚な場所だ。
痛みは限界を超えたのか痺れしまっていてよくわからない。ただ経験から
すれば、波があって、後でぶり返してくることは間違いなかった。
「…疲れた…。」
ヒカルは元公衆電話があったらしき一角にもたれてひと休みした。
駅に向かう人々が行き交う中、一人の中年男性がこちらを見ている。
一瞬、ヒカルはギクリとした。棋院関係の人かもしれない。あるいは、
碁会所の常連客かもしれない。そういう人に呼び止められたら厄介だと
思ったのだ。その男はすーっとこちらにやって来て、指を1本立てた。
「…?」
「君…いくら?…もしかしてこれくらい?」
指が3本になった。ヒカルは意味を悟ってカッとなった。
「君のランクなら、これだけ出しても良いよ。」
男は手を広げて見せた。ヒカルは無理にも早足でそこから立ち去った。
男が小さく舌打ちをする。
たまらなく惨めだった。
プロ棋士・進藤ヒカルが、援助交際目当てのガキと間違えられたのだ。


(20)
すれ違う人々が、皆そういう目で自分を見ているような気がした。
繁華街の中を、彷徨っては立ち止まり、誰かに見られているような気がしては
またふらふらと彷徨う。朝まで横になれて、いざという時トイレが使える処を
探す。一つ先の駅の近くに終日営業のボーリング場があった事を思い出した。
「先生があれだけしかお飲みにならないなんて、意外でしたなあ。」
「少し控える事にしましたので。…それではここで、失礼。」
雑居ビルのエレベーターからそんな会話をしながら路上に出たその男は、
相手と別れるなりスーツの内ポケットからタバコとライターを取り出し
タバコに火を点けた。そこから駅までは近い。
男は電車ではなく、駅前のタクシー乗り場に向かうため歩き出した。
「…おや?」
男は人込みの中に、見覚えのある特徴のある髪の色をした少年を見かけた。
ボーリング場のネオンに照らされた小さな噴水を囲むように植え込みがあり、
カップルや携帯をかける若者らが腰掛けている。ヒカルもそこに座った。
膝がガクガクと小刻みに震えた。思っていたより歩き過ぎてしまった。
「…塔矢は、今、どうしているのかな…。」
旅先のホテルで、さっそく手に入れた中国語の棋譜の本のページをめくる、
そんなアキラの姿が頭に浮かんだ。フッと口元が弛んだ。
だが、すぐに苦しげに唇を噛む。痛みが本格的に戻って来たのだ。
…今、さっきのような男が話し掛けて来たら、思わずすがってしまうかもしれ
ないと思った。お金は要らないから、休めるところに連れて行って欲しいと。
「こんな時間に、こんなところで何をしているんだ。」
ヒカルがその声が自分に向けられているという事と、それが聞き覚えがある
声だという事を認識するのに、多少の時間を要した。



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