とびら 第二章 16 - 20


(16)
ヒカルの様子がおかしい、と和谷は思った。上の空で、検討もひどいものだった。
いつものような鋭い意見も、きらめくような一手もなかった。
碁石を片付けるヒカルの手はとまったままだ。目が何も見ていない。
自分などいないように思われているようでつらい。言葉はのどの奥でつまったままだ。
唐突にヒカルの手が動き出した。碁石のぶつかる音がやけに大きく感じられる。
「なあ、和谷にとって、オレって何だ?」
いきなりの質問に戸惑う。
その問いは自分自身に何度もしてきたものだった。未だに答えは出ていないが。
「同期でライバルで仲間」
とりあえずそう答えると、ヒカルはかすかに笑った。
「和谷には唯一無二の人っているか?」
本当におかしい。こんなことを聞いてくるなんてヒカルらしくない。
ふざけて言っているのかと思ったが、その目にはからかうような色はない。
それどころかどこか傷ついているような瞳だった。
「ん〜、とくにいない、かな。家族は大事だけど、唯一無二と言われるとなあ。
 進藤はいるのか?」
「いるよ」
和谷はどきりとした。いったいそれは誰だ。焦燥感を抱いてしまう。
だがそれも次の一言で鎮まってしまった。
「もう、そいつ、いないけど」
ヒカルは膝を抱えた。
「オレ、バカで優しくないから、ちっとも気付かずにいた。そいつが何よりも大切な
 存在だったってこと。いなくなってから気付くなんて、ホント、バカだよなあ。
 もっと早く気付いていたら、何か変わっていたのかな」
小さく背を丸めている様子が、ひどく痛ましい。
「何度も神様に願った。願って願って、そして叶えられないと知ったとき、オレは本当に
 自分が嫌いになったんだ……」
ひとしずく、ヒカルの瞳から涙がこぼれた。


(17)
元気で明るいヒカルがこんなに憔悴しきっているのが信じられない。
いったい何があったのだろうか。
ヒカルは目元をぬぐいながら笑ったが、無理にしているのがわかる。
「和谷は自分がいなくなるとき、何か言うか?」
「そりゃあ……」
言うさ、と言いかけて口をつぐむ。下手なことは口に出せないと思った。
誰かは知らないが、おそらくヒカルの大切な人が死んだのだろう。
それがヒカルを傷つけている。
和谷はヒカルの目の前にしゃがんで目線を合わせた。
「最後に相手が何か言わなかったからって、自分を嫌っていたというわけじゃない。
 言えなかったわけがあるんだよ。おまえも何をうだうだ気にしてんのか知んないけど、
そいつと過ごした時間を思い出してみろ。言葉よりもそっちのほうが大事だろ」
何だか臭い台詞だ。自分も相手がヒカルではなかったら絶対に言わないだろう。
ヒカルは大きく目をしばたいた。そして嬉しそうにうなずいた。
「和谷って、たまには良いこと言うな」
「たまに、だとお?」
声を出して笑いながら、ヒカルは和谷の肩をなだめるように叩いた。
「サンキュ、和谷。ちょっと気が楽になった」
少しだけか、と思ったが言わなかった。人を失う悲しみは簡単に癒えるものではない。
ふと唇が近いことに気付く。キスがしたかった。
ヒカルは和谷の気持ちを察したのか、心持ち顔を突き出してきた。
あごに手をかけ顔を近づける。そして気付いた。
「おまえ、唇が切れてるな」
何気なく言ったのにヒカルの頬が赤くなった。
「これはぶつけて、その噛んじゃって……目立つか?」
「いや、別に」
言いながら和谷は傷に口づける。そしてそのまま重ねた。


(18)
唇が離れるとヒカルは感心したように言った。
「和谷ってキスがうまいなあ」
「そうか?」
ヒカルに言われて嬉しく思う自分がいる。
このまま抱いてしまいたいと思ってヒカルの手首をつかんだ。
「いたっ」
ヒカルの声に慌てて手をはなす。そんなに強く握ってしまっただろうか。
「って、おまえ怪我してんじゃねえか」
まだ生々しい傷が手首にあった。まるで縛られたような――――
「どうしたんだ、これ……」
「ああ、ちょっとな」
和谷は手を伸ばして隅に置いておいた救急箱を引っ張った。ヒカルがびくりとする。
中には催淫剤や潤滑剤、他にもソノ気にさせる錠剤や軟膏が入っている。
もちろん普通の消毒液や傷薬などのものもある。
「バカ、ちげえよ。手当てするんだよ。腕まくれ」
言われるままヒカルは袖をまくる。
「ああ、トレーナーなんか着てるから、傷の上に服の跡がついてんじゃねえか。
 もっと袖のゆったりしたのを着ろよ。それにきちんと手当てしとけよ」
消毒し、薬をすりこみ、ガーゼをあてて包帯を巻く。
ヒカルを抱くと気を付けていても傷を作ってしまうので、少し救急の仕方を勉強したのだ。
「……和谷って口うるさいんだな」
そう言いながらもヒカルの口調は明るい。和谷はヒカルの額をこづいた。
ヒカルの笑い声が心地よく自分の中へと入ってくる。
結局この日、和谷はヒカルを抱かなかった。
ついばむようなキスを繰り返すだけで満ち足りた思いになった。
唯一無二かはおいて、和谷にとってヒカルは大切な人だというのは確かだった。


(19)
棋院の中は暖かい。鼻をすすりながら和谷はエレベータへと向かう。今日は研究会の日だ。
ヒカルは学校で最終の進路確認をされるらしく、少し遅れてくると言っていた。
担任も自分の教え子が不安なので、念押しをしたいのだろう。
「げ……」
和谷は顔をしかめた。仁王立ちとも言えるアキラの姿があったからだ。
無視を決めて脇を通り抜けようとしたが呼び止められた。他ならぬアキラ自身に。
「ちょっといいですか」
よくねえよ、と心の中で思ったがさすがにそう言うわけにもいかないのでうなずいた。
トイレに連れて行かれる。アキラは戸口に勝手に“清掃中”の札をかけた。
「誰も入ってきて欲しくないから」
「何の用だよ」
和谷は睨みつけた。だがアキラは涼しい顔をしている。そのすかした様が気に入らない。
「僕は進藤を抱いた」
その音が言葉として意味を成すのにしばらくかかった。
とりあえずわかってからも、“抱く”というのをどういう意味で使っているのかを考えた。
ただ抱きしめたということか。
だが違う、と和谷は思った。嫌なものが胸の中でふくれ上がってくる。
アキラを凝視した。その唇に目がいく。傷があった。ヒカルと同じような、傷。
「まさか、おまえ……抱いたって……」
「そう、セックスしたんだ」
手首の傷痕が鮮明によみがえった。
「てめぇ!」
アキラは和谷の怒りなど気にしないような表情だった。
「僕は進藤が好きだ。彼の唯一無二の存在になりたいんだ」
唯一無二―――ヒカルの言っていた言葉だ。
「彼の身体が目当てなら、身を引いて欲しい。きみには仲間や大切なひとがたくさん
 いるだろうけど、僕には進藤しかいないんだ」
「いないって家族はどうした。おまえはあの塔矢名人の息子だろうが」
「……父は僕にとって圧倒的な存在過ぎて、大切だけど、違うんだ」
和谷は一瞬アキラの孤独を垣間見た気がした。だが、だからと言って同情などしない。
目の前のこいつはヒカルを縛り付けて自分の好きなようにしたのだ。
黒く渦巻く怒りをすべてアキラにぶつけてやりたかった。
「誰が身を引くか! 身体だけが目当て? そんなわけないだろう! 俺だって! 
俺だって進藤が好きなんだ!」


(20)
自分の叫んだ台詞に和谷は自分で驚いた。だがそれは真実だった。
すとんと胸のつかえが落ちて、とてもすっきりした気分だ。
そう、ヒカルが好きだ。
「だから、おまえなんかに渡さねえ。あいつにあんな顔させやがって」
「あんな顔……?」
アキラの表情が揺らいだ。和谷はたたみかけるように言った。
「ああ、アイツはすごい落ち込んでんだ。傷だって痛そうだったし、泣き言まで言ってた。
 いつも脳天気なやつなのに、おまえがそうさせたんだ!」
実際にはすべてがアキラのせいのようには思われなかったが、そんなことを言うつもりは
ない。とにかくアキラが自分のしたことに傷つけばそれで良かった。
「アイツ、まるでこの世に一人みたいな顔してたよ」
そう吐き出して、今のヒカルがどこかアキラとかぶさるように感じた。
アキラは唇を引き結んで、言い返してこない。それがかえって腹が立つ。
和谷はアキラの右肩を強くつかんだ。
「おまえ、自分には誰もいない、進藤しかいないだなんて甘えたこと言うなよ!
 俺にはたしかに仲間も友達もいる。みんな大事だ。けど、その中でも進藤なんだ!
 おまえも進藤が好きなら、たくさんの中からそれでも進藤なんだって言ってみせろよ!」
言っていて首をかしげそうになってしまった。これでは叱咤激励しているようだ。
アキラは和谷の手を力いっぱいはたいた。
「自分が欠けているのはわかっている。だけどそれはもうどうしようもないんだ。
 欠けたそこが進藤を求めて何が悪い! 僕だってきみのように言えるのなら言いたい。
でも言えないんだ! 何もない僕の、進藤は唯一の存在なんだ!」
「おまえ……」
和谷はだんだん何を話しているのかわからなくなってきそうになった。
最初の話を思い出す。そう、ヒカルのことだ。
「とにかく、もう進藤に近付く……」
「それはできない」
間髪いれずにアキラは言った。



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