とびら 第三章 16 - 20


(16)
懸命に走るのだが足に力が入らないのでなかなか進まない。
振り返ると和谷のアパートから少しも離れていないことに気付く。
迷路にいる気分だった。
「待てェッ!」
男が自分のペニスを外に出したまま追いかけてきた。その格好にぞっとする。
早く逃げなければ。そう思うのに二人の距離はますます縮まり、ついには無くなった。
押し倒され、アスファルトに頭を打ちつけたヒカルは目をまわした。
そのすきにジーンズを脱がされた。
「やだっ。やめろっ!」
全身が男を拒んでいる。だが男の力が強くてヒカルは逃れられない。絶望的だ。
「くそっ! 誰か! 誰かぁ! と……塔矢! 塔矢!!」
ゴキッという変な音がして、男の上体が揺らぎ、倒れた。
何が起こったのか把握できずにいるヒカルを誰かが強引に引き起こした。
痛くてわめこうとしたが、自分を掴んでいるのが他ならぬアキラだったのでぽかんとした。
「進藤! 大丈夫か? 何をされた!?」
「……呼ばれて飛び出てじゃじゃじゃん……塔矢ってヒーローみてェ……」
思わずそうつぶやいてしまった。アキラは硬い表情のままヒカルの服を整えた。
「この人は誰だ」
「和谷の隣に住んでる人」
冷ややかにアキラは男を見た。
男はその目に怯えたようだが、腰を抜かしているのかその場から立ち去らなかった。
アキラは男の姿を一瞥して、不快そうに言った。
「何て格好をしているのですか。みっともない」
男のズボンからはいまだにペニスが出ていた。
「彼にのしかかって、何をしようとしてたのです?」
底冷えするような声音に、ヒカルは恐ろしくなった。対する男は甲高い声をあげた。
「ち、ちがうョ? おれじゃない。その子がそんな姿で……おれはたぶらかされたんだッ」
「何だよ、それ!」
「たしかにその格好は悪い」
アキラにまでそう言われ、ヒカルは頭にきたが、自分を見下ろして言い返せなくなった。
多少は整えてもらったとはいえ、服はやはりひどく乱れていたからだ。


(17)
アキラが自分の上着をヒカルにかけてきた。夜の冷え込みが一段と厳しい時期だ。
しかしヒカルはその下の寝巻き姿を見て返そうとした。だがアキラは無言で押し付けた。
その目はあいかわらず男のほうを見ている。
「な、何だョ、キミ。ジロジロ見るなョ」
アキラはくすりと笑った。
「彼を襲うとは身のほど知らずですね。そんなモノ程度で、彼を満足させられるとでも
思ったのですか? 笑っちゃいますよ」
自分の一物をけなされて、平然としていられる人は少ないだろう。案の定、男は怒った。
「何だ! 失礼じゃないか、キミ! くそッ! ミンナしてバカにしやがってッ!
たしかにおれは今はこんなんだけどなァ! ホントのおれは違うんだッ!」
男の形相がみるみるうちに変わっていく。まるでホラー映画を見ているようだ。
「と、塔矢、やばいよ。逃げようぜ」
「きみ、全力で走れるか?」
アキラはヒカルの身体が使いものにならないことに気付いているようだ。
運動神経がいいほうのヒカルは、そんなふうに言われて歯噛みした。
「大丈夫。人を呼べばいい」
「誰も来ねえよ。みんな寝てんだよ」
ヒカルの言葉など気にしていない様子で、アキラは深呼吸をした。
次の瞬間、夜の澄んだ空気に響くような声が発せられた。
「火事だ! 火事だ! 誰か! 火事だ!!」
切羽詰った声だった。数回連呼しただけで、周りの家に明かりがつき始めた。
「火事だって?」
各家の玄関から次から次へと人が飛び出てくる。
「今だ」
男を突き飛ばして転倒させると、呆気に取られているヒカルを引っ張り走りはじめた。
身体が痛くてたまらなかったがヒカルは足を動かした。
角を曲がるとアキラはヒカルを壁に押し付け、隠すようにおおいかぶさってきた。
「塔矢……」
「静かに」
アキラの息がすぐそばで聞こえる。それはヒカルを安心させるのに十分だった。


(18)
辺りが騒然となる。バケツに水を入れてそれを振り回しながらやって来た人もいた。
「火元はどこだ!」
「どこが燃えているんだ?」
もともと火など出ていない。騒ぎが静まっていくと、妙な雰囲気が流れ出した。
「火はついていないな」
「悪戯か?」
「おい、誰か転んでいるぞ。きみ、大丈夫……」
「きゃあっ!」
女の悲鳴が聞こえた。みなのあいだにどよめきが走る。
「あんた! 何て格好をしているんだね!」
「え、おれ? あ、これは違うんですョ」
「誰か警察を呼べ!」
「おれは何もしていませんッ」
「そんな格好でよく言えるな。まあ、言いたいことは警察に言ってくれ」
その声を聞いていたアキラは笑い出した。ヒカルはあまり笑える心境ではなかった。
「あの人、警察に連れて行かれるみたいだぜ」
「それが? 自業自得だ」
「でもオレたちのこと何か言わないかな」
「何て言うのさ。男の子を犯そうとしたんです、なんていくらあの男でも言わないだろう。だいたい、きみを襲おうとするなんて万死に値する」
本気で言っているような言葉に、ヒカルはため息をついた。
「何で火事だなんて言ったんだよ」
「助けてと叫んでも誰も出てこないからだよ。きみも何かあったら火事だと叫んだほうが
いい。人殺しとか泥棒とか叫んでも、いらぬ火の粉をかぶりたくない人が多いから、
なかなか出てこない。それこそ本当の火の粉じゃなきゃね」
アキラはヒカルの手を握り締めてきた。
いつもは冷えているのに、今日は温かいなとヒカルは思った。しかしアキラは言った。
「こんなに冷たくなって……」
自分のほうが冷えていたのだ。袖で頬の血をぬぐわれた。
何があったのかをアキラは聞かない。知っているのだ、とヒカルにはわかっていた。


(19)
部屋を出るときに目にとまった転がった携帯電話。それが気にかかっていた。
和谷は自分を抱きながら誰かと――考えたくないがアキラと――話していなかったか。
電話をかけていたのはかすかに記憶にある。声を出すなと言われたからだ。
出したらこのまま放っておくとも言われ、ヒカルは必死でこらえた。
それを楽しそうに和谷は見、自分の感じるところをわざと触れてきた。
それでもヒカルは堪えた。早く自分の中に和谷のものを入れてほしかったからだ。
そのとき、不意に和谷に呼びかけられ、堰を外された。
奇声をあげ、恥ずかしいことをたくさん言った気がする。
そのとき、アキラが自分を呼ぶのが聞こえた気がした。
あれは空耳ではなかったのかもしれない。
「……何でここにいるんだよ」
「きみが気になったから」
「……電話か?」
アキラは静かにうなずいた。
「……そうか……」
アキラが自分の身体を支えている。痛みが音となって身体中に響いていた。
そっと傷口を撫でられた。今日はアキラがこの肌に触れるはずだった。
いつものように数手並べてもらい、ヒカルはしぶしぶといった感じで服を脱ぐ。
そのときのアキラの落ち込んだような、でも自分を欲しくてしかたないというような目を
見るのが好きだった。
ヒカルはアキラに抱かれることが当たり前になっていた。
最初のころに抱いたような戸惑いや抵抗はほとんど消えていた。
和谷のほうが行為そのものに没頭できるが、アキラが触れてくるときにあふれてくる
言いようのない感情が心地よかった。
だがそれを素直に伝えるのは決まり悪くて、いつも皮肉を一つ二つを言っていた。
それでもアキラはめげずに好きだと言い続けた。あふれんばかりの想い。
やはりヒカルにとってアキラは特別な存在だった。
大切にされているという実感があった。それは和谷だって同じだった。
だが今日の和谷のこの仕打ちは何だろう。
好きだという想いはこんなにも両極端な面を持つものなのだろうか。
自分を好きだと言う二人。
かえってヒカルはすべてが嘘のような気がしていた。


(20)
「とにかく帰ろう。歩けるか?」
肩を抱き寄せられた。いたわるようなアキラにヒカルは戸惑う。
アキラの心を信じていいのだろうか。
「進藤?」
アキラが顔をのぞきこんでくる。ヒカルは小さく尋ねた。
「……塔矢、オレが和谷に抱かれるのはイヤか?」
一瞬の沈黙。そのあと、風のようにかすかな声が耳に届いた。
「いやだ」
その一言でずいぶん気持ちが楽になった。
アキラの手が耳に触れてきた。ヒカルは反射的にアキラの横髪へと手をやった。
キスをするとき、髪が自分の顔にかからないようにするためだ。
だがそこで手が凍りついたように動けなくなった。
和谷の激怒した顔が思い浮かんだのだ。
何の気なく耳元を探ってきた和谷。ヒカルは腕を伸ばし、その髪をかきあげる仕草をした。
本当にささいな動きだった。だがそれがアキラとヒカルの行為だと和谷は気付いたのだ。
あの傷ついたような目が忘れられない。
不自然にとまったヒカルをアキラはいぶかしそうに見たが、ヒカルの手に自分の手を重ね
て、静かに唇に触れてきた。
「さあ行こう」
二人は大通りへと出た。時間はもう深夜だが人がけっこう多く、じろじろと自分たちを
見ていく。格好が格好なので奇異に思っているのだろう。
アキラは手を挙げてタクシーをつかまえようとするが、空車と表示されているのに目の前
を通り過ぎていく。
「なあ塔矢、電車にしようぜ。ぎりぎりで終電が動いてるかもしれない」
「そんな姿のきみを人前にさらしたくないんだ」
根気よく立ち続け、ようやく一台がとまった。だがヒカルは乗るのに躊躇した。
和谷と乗ったときのことを思い出したのだ。
だがアキラが手を差し伸べたので、ヒカルはその手にひかれるように乗った。
アキラはヒカルの肩を引き寄せ、自分の膝に頭をのせさせた。
「着くまで横になってなよ」
和谷との再現のような気がして、ヒカルは頭の中がざわめいてくるのを感じた。
ふ、とまぶたにアキラが触れてきた。瞬時にヒカルは眠りに落ちた。



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