とびら 第四章 16 - 20
(16)
とりあえず立たせようとアキラの腕をヒカルは持ち上げた。
だがアキラは大儀そうで、相変わらずかがみこんだままだった。
「おい塔矢、具合が悪いのか?」
ヒカルは膝を曲げてアキラの顔をのぞきこんだ。顔色があまり良くない。
おまけに額には脂汗がにじみ出ており、ヒカルは本気で心配になった。
「帰ったほうがいいな。塔矢つかまれよ」
差し出した手首をアキラは握りしめ、首を左右に振った。
「平気だから……」
「平気そうに見えないぜ」
「少し痛むだけだから」
「ケガしてるのか? どこだ?」
ヒカルはアキラの身体を見渡した。目立った外傷はないようだった。
アキラは別にケガじゃないんだ、とあいまいに言葉をにごらせる。
「ちょっと走って、その、痛むだけだから……すぐに治まるから」
様子を見ようと、ヒカルはそのままアキラの隣にしゃがんだ。
少年二人が座り込んでいるのを周りはちらりと見ていくが、たいして気に留めないようで
足早に通り過ぎていく。他人に無関心な町だ。
不意に大きな音が聞こえた。ヒカルは赤くなった。お腹が鳴ったのだ。
アキラは目を見開いて、それから笑った。
「何だよ! オレは昼飯も食わずにずっとおまえを待ってたんだぞ!」
お腹が空いてるに決まってるだろう、と言うとアキラは笑みを残したままうなずいた。
アキラはゆっくりと立ち上がり、手を差し伸べてきた。
「行こう。もう平気だから」
本当かとヒカルはその顔を見据えた。だがアキラはおだやかに笑っている。
何食わぬ顔をしているが、実際はどうなのだろう。痛みはもういいのか。
しかしヒカルは見極めることができなかった。
(……オレが気をつけて見ていてやればいいか)
そう思い、アキラの手をとった。それはいつもと変わらず、ひんやりとしていた。
(17)
信号待ちで並んだヒカルは隣に立つアキラを横目で見た。
アキラはしっかりと背を伸ばし、苦しさを微塵も感じさせない。
「お昼は何を食べるの?」
「え? ああ。おまえ、北と南と、どっちがいい?」
ヒカルの質問にアキラは戸惑ったように首をかしげたが、「南」と小さく答えてきた。
「よし、じゃ行こう!」
青に変わった横断歩道は大勢の人で埋め尽くされ、すれ違うときぶつかりそうになる。
ヒカルはアキラを気遣いながら歩いた。やはりアキラの動きは少しぎこちない。
腰か足のあたりがどうも痛いようだ。だがねんざというわけではないらしい。
(どこかにぶつけたのかな)
ものにぶつかるなどアキラらしくなく、想像すると何だかおかしい。
ヒカルは一軒のラーメン屋に入った。
ピーク時は過ぎたようだがそれでもけっこう人が並んでいた。
「……ラーメン……?」
「そう。ここのうまいんだぜ。三種類あるんだけど、どれがいい?」
「どれと言われても……」
ベースはとんこつで、あっさりしたのと濃いのと、その中間があるとヒカルは説明した。
予想通りアキラはあっさりしたものがいいと言った。
具は自分で選べるのだが、いちいち頼むのが面倒なので全部入るのにした。
前払いなのでヒカルが財布を取り出すと、アキラはその手を押しとどめてきた。
「遅れたんだから僕が払う」
「もともとオレがおごるつもりで誘ったんだぜ」
しかしアキラはしつこく食い下がってきた。ヒカルはその額を思い切りはじいてやった。
「遅れてきたんだからオレの言うことを聞け!」
不服そうな顔をしたがアキラはしぶしぶ引き下がった。
だが値段の表示を見てまた大声を出した。
「一杯が千円以上!? 高く……」
慌ててヒカルはその口を両手でふさぎ、さっさと支払いをすませて席に並んだ。
(まったく……自分が払うときはどんな金額でもぜんぜん顔色を変えないくせに、オレが
払うとどうしてこんなに取り乱すんだよ……)
ヒカルはこっそりため息をついた。
(18)
手渡された小さな色つきのプラスチックの札をヒカルは手の中でもてあそんだ。
いい匂いが店内に満ちており、自分の胃が激しく収縮するのがわかる。
アキラは浅めに椅子に腰をかけ、物珍しそうに周りを見ている。
「もし“北”と答えたら何にするつもりだったんだ?」
「みそラーメン」
「……ラーメンに変わりはないんだね」
「だってオレ、食べ物のなかで一番うまいのはラーメンだって信じてるもん。だからさ、
おまえに食べさせたいって思ったんだ」
何気なく言ったのに、アキラの頬が赤らむのがわかった。
「そ、そんでさ、そのなかでもとんこつしょうゆが好きなんだけど、原宿に行きたいって
思ったから、その、ここにしたって言うか、ええと」
何が言いたいのかわからなくなってくる。自分が動揺してどうする。
「なぜ原宿なんだ?」
もうアキラの表情は普段に戻っていた。ずるいなと思う。
「……おまえってさ、浅草とか巣鴨とか、そういう町のほうが似合うじゃん?」
アキラの眉がわずかにひそめられた。
「僕はとげ抜き地蔵を撫でているのが似合うと?」
「そういうわけじゃなくて……おまえ何怒ってんだよ」
「別に怒ってなんかいない」
ヒカルはいや怒ってる、と言おうと思ったが気を取り直して話を続けた。
「おまえ見た目は大人っぽいからさ、静かでゆったりした町にすんなり溶け込むだろ?
だからこういう雑然とした町ではどんなふうに見えるか興味があったんだ」
「どうせ僕はこういうところでは浮くよ」
つっけんどんな口調にヒカルはむっとした。今度はがまんできなかった。
「そんなこと言ってないだろ。それにこういう話くらい、もっと軽く受け流せよ」
「僕は進藤のように簡単に流しっぱなしになんてできないんだ」
「何だよ、それ! おまえオレにけんか売ってんのかよっ。だいたいおまえ……」
「すみません、札を渡していただけますか」
店員がやってきて一触即発だった空気が薄れた。
お互いかっとなってしまったのが気まずくて、二人は黙り込んだ。
(19)
そろそろ自分たちの順番がまわってきそうだった。
そっとアキラをうかがい見たヒカルはどきりとした。
アキラがどうしたらいいのかと言いたげな目でヒカルを見ていたのだ。
「……ああー、オレさ、おじいちゃんと巣鴨に行ったことがあるんだ。そんでさ、そこで
お昼に釜飯を食べることになったんだ。で、店に入ったんだよ。ところが待つんだけど
なかなか出てこないんだよ。その店、注文してから炊きはじめるのを売りにしてるみたい
でさ。でもオレすっげえ腹が減ってて、待ちきれなくてとうとう泣き出しちゃったんだ。
んで結局ちがう店に入ることになったんだ」
一気にヒカルはしゃべった。何だかいきなりでわざとらしい気がするが、とにかく何か
言わなくてはと思ったのだ。アキラはヒカルに向き直り、口を開いた。
「泣いたの?」
「そこに目をつけるなよ。言っとくけど、ガキのころの話だからな。で、そんときオレは
思ったんだよ。注文してすぐに出てくるラーメンはすごいってな」
「巣鴨は老人のかたが多いからね。みんな気が長いから、待てるんだろうね」
真面目な顔をしたアキラにあいづちを打たれ、ヒカルは少し面食らった。
予想していた反応と違う。
(こいつに冗談というか、ふざけた話というか、そういうのあんまり通じないよな)
小学校生のとき友達にこの話をしたら、大笑いされ、「結局ラーメンを誉める話かよ!」
と頭をこづかれた。
ヒカルのラーメン好きはけっこう有名だった。中学の級友たちは知らないだろうが。
(学校で仲のいい友達なんて、今じゃホント、数えるほどしかいないもんなあ)
ようやく店員に呼びかけられ、二人は席に着いた。この店はみなカウンター席だ。
アキラが一瞬ためらったような気がした。やはり身体が痛むのだろうか。
そこでヒカルははっとした。体調の良くないアキラにラーメンはまずいかもしれない。
自分が気遣わなければと思っていながら、そのことに思い当たらなかった。
(だってオレ、ラーメン食べる気満々だったし……)
心の中で言い訳をするヒカルの目の前にラーメンが置かれた。ヒカルはアキラを見た。
アキラは箸を割るところだった。そこでまた一つ自分の失点に気付いた。
「何? 進藤」
「……塔矢、おまえ、ラーメン好き?」
こんな基本的なことも聞いていなかった自分が情けなかった。
(20)
「嫌いじゃないよ。中華料理店に行ったときは必ず食べるし」
それは中華そばといって、ラーメンとは微妙に違う気がした。
「真っ白だね、スープが」
「え? ああ」
具は豚の角煮、めんたいこ、のり、きくらげ、煮卵などである。特にめんたいこの朱色が
白いスープの中で鮮やかに浮き上がり、食欲をそそる。
アキラが汁をすするのをヒカルは緊張しながら見た。
「どうだ?」
「……よくわからない」
美味しいか不味いかを聞いたのに、わからないとは何という答えだ。
ヒカルは慌てて飲んでみた。すると舌の上から幸せが広がっていった。
こってりとした濃厚なスープだがくどくなく、細めの縮れ麺によくからんで美味しい。
「おまえの飲んでみてもいい?」
承諾されるまえにアキラの器にレンゲをいれた。ヒカルのほど濃くはないがにんにくの
香りがきいており、とんこつ特有の臭みをうまく消している。
これは好みの問題かとヒカルが思ったとき、アキラはためらいがちに言ってきた。
「熱くてよくわからないんだ」
「ああそうか。おまえ熱いの苦手って前に言ってたっけ」
しかし熱いのがだめだというのはラーメンを食べるのに向いていないということになる。
(根本的に合わないのをオレは食わせてるってことか?)
考え込むヒカルにアキラは慌てたように首を振った。
「平気だから進藤。それより早く食べよう。麺がのびてしまう」
その通りだと思いヒカルは食べ始めた。アキラも息を吹きかけながら食べている。
髪が口元にかかり、食べにくそうだ。つくづくラーメンとは相性が悪いように見える。
だが一生懸命すすっている姿は愛嬌がある。
汗が滝のように出ており、上気した頬が艶っぽい。
麺の湯きりをしていた料理人の目が一瞬アキラにそそがれたのがわかった。
(何だ、こいつも男に受けるんじゃん)
駅で男に声をかけられたことが少しショックだったヒカルは何となくほっとした。
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