とびら 第五章 16 - 20
(16)
指先で何度も何度も座卓をたたく。
落ち着こうと思うのだが、苛立ちはつのるばかりだ。
アキラは時計をにらんだ。
(約束より48分も過ぎている。どうしたんだ進藤)
ヒカルは意外にも、と言ったら失礼かもしれないが、時間にきちんとしている。
時間にルーズな人をアキラは嫌いだったから、ヒカルのそういうところをとても好ましく
思っていた。なのに今日はまだ来ない。
(もしかして、この間のボクの遅刻に対する意趣返しか?)
そう考えて、首を振る。ヒカルはそういう陰険なことはしない。
(何か急な用事でも入って、来られなくなったのかな)
しかしそれならば連絡が入るはずである。だからこれは単に遅刻なのだろう。
なら電話の一本くらい寄こしてくれてもと思うのだが。
まあ遅くても文句を言うつもりはなかった。自分だってヒカルを待たせたことがある。
しかも決してヒカルには言えない事情で。
アキラは肌寒くて肩をふるわせた。部屋の暖房の設定温度はかなり低かった。
その理由は座卓の中央に鎮座している菓子箱にあった。中にはチョコが入っている。
チョコレートに暑さは大敵である。
しかし冷蔵庫に入れると味が変わってしまうので、絶対にだめだと店の人に言われた。
だからしかたなく、こうして寒さをがまんすることにしたのだ。
アキラが今日が世間が浮かれる日だと気付いたのは学校でであった。
海王中学は土足可の学校なので、下駄箱はない。
だから下駄箱を開けた瞬間に、チョコがどさどさと落ちてくるようなことは起こらない。
またロッカーはあるが鍵がかかっているので、ここにも入れられることはない。
よって机にこれでもかとチョコが詰め込まれることになった。
本来ならば昼食用以外の食べ物を持ち込んではいけないのだが、この日ばかりは女生徒も
従ってはいられないのだろう、席を離れるたびにチョコが机の中に入れられた。
おかげでカバンがみっともなく膨れ上がった。
ほとんど顔も名も知らない少女からの贈り物に、アキラは戸惑った。
手渡してくる者はいなかった。
なぜならアキラは今まで、直接やってくるチョコは必ず断っていたからだ。
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しかしもらうチョコレートの数は増え続け、今年は過去最高となった。
だがその数よりも、付属の手紙に恐怖に似た感情を覚えさせられた。
気の毒だが“待ってます”というものは無視させてもらった。
指定している場所や時刻もほとんど一緒だったし、どうせ気持ちには応えられないのだ。
学校が終わるとアキラは執念の塊のようなチョコを抱え、碁会所に行った。
そして市河に渡した。
市河はチョコが大好きらしく、毎年アキラのもらうチョコをせがんだ。
アキラとしても大量のチョコを消費することなどできないので、すべてを渡していた。
そして代わりにと、市河が手作りチョコをくれる。年の数分のトリュフチョコだ。
他にも違うチョコが作れるのよ、と市河は不満そうにいつも言うが、アキラはこれがいい
と言いつづけた。なぜなら、芦原が好きだからだ。
実は市河の作るトリュフチョコをアキラはいつも一つしか食べない。
あとは芦原の口へと入っていた。
「いいなあ〜、アキラくん、市河さんから手作りのチョコをもらって。俺なんて、市販の
やつだったよ。いいなあ、いいなあ〜」
などと言われてどうぞと差し出し、いつのまにか毎年恒例のこととなってしまった。
今年は15個入っているだろうチョコの箱は、冷蔵庫のなかに入れられている。
目の前のチョコレートの箱をアキラは見つめた。
(お店はすごく混雑していて、いるだけで疲れたな)
アキラは市河に渡すとすぐに碁会所を出て、チョコレートの専門店に向かった。
せっかく世間が騒いでいる行事の日なのだから、自分もそれに乗ろうと思ったのだ。
外国では男性からでも女性に贈る。
だがここは日本だ。アキラは店でかなり浮いた。
しかしヒカルの好きそうなチョコを選ぶのは楽しかった。
そして不意に、アキラは市河や少女たちに対して罪悪感のようなものを感じた。
どんな想いで選び、渡すかを知ったからかもしれない。
食べてほしい、喜んでほしいという気持ち。
自分がいつもヒカルに食べ物を持っていくのは、気を引こうというより、ただ美味しいと
言って笑う顔を見たいからだと、最近気付いた。
時計のぼ〜ん、という低い音が部屋に響いた。
冬の太陽は沈むのが早い。西にわずかに朱を残し、空は藍色に染まりはじめていた。
(18)
少しくらい遅れるのがなんだ。今日は朝までヒカルと二人きりでいられるのだ。
アキラはそう前向きに考えた。
ヒカルを抱くのは久しぶりだ。そう思うと気分が高揚してくる。
和谷との一件でヒカルの身体は傷ついて療養を必要としていたし、自分も和谷とはからず
も関係を結んでしまったことによって、身体が本調子ではなった。
二人ともそういうことをする余裕などとてもなかった。
(あの日は本当に最悪だった。せっかく進藤と出掛けて楽しかったのに、何もかも台無し
にされた気分だった)
忌々しげにアキラは顔をしかめた。
あの日、すべてのツケがまわってきたように、夜に体調をくずした。
翌日は身体がきしんで起き上がれなかった。
痛みを感じるたびに嫌でも思い出させられて、ますます和谷が憎くなった。
だが和谷も自分と同じ痛みを味わっているはずだ、と自分をなぐさめた。
ようやく身体が良くなると、今度はヒカルが欲しくて欲しくてたまらなくなった。
今夜は遠慮をするつもりはなかった。
もちろん優しく抱く努力はするつもりだ。
だがアキラは自分がヒカルを前にして、感情のタガを外さないという自信はなかった。
ここ数日、ずっと想像の中でヒカルを抱いていた。
(けれど今日ボクは、現実の進藤を……)
ずきりと下半身がうずく。
アキラは身体を冷やすついでに、外の様子を見てみようと立ち上がった。
玄関に出たところで、門の前に車の気配を感じた。急いで駆け寄る。
「え〜と、これでピッタシかな?」
ヒカルの声が聞こえた。門を押し開くと、その姿が見えた。
「進藤!」
「わっ! 塔矢! わ、悪かったよっ」
うろたえるヒカルをアキラは衝動のままに抱きしめた。
この腕の中にヒカルがいる。それだけでとても幸せになれた。
タクシーの運転手は怪訝な顔をしたが、すぐにドアを閉めて走り去った。
「とにかく遅れて悪かったよ」
「かまわない。それより家に入ろう。ここだと冷える」
ヒカルを門の中へとうながす。朝になるまでもうこの門は開けないつもりだ。
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目を丸くしたまま立ち尽くしているヒカルをアキラは不思議に思った。
「どうしたんだ、進藤」
「すげえ大きい家だな。門にも驚いたけど、玄関までけっこう距離があるんだな。なんか
おぼっちゃまのうちって感じ」
そうかな、とアキラが首をかしげると、そうだよ、と言いながらヒカルは飛び石を身軽に
渡っていった。
「お邪魔しまーす」
勝手に玄関を開ける。普通なら失礼なやつだと思うのだがヒカルだと憎めない。
人の気配がないのに気付いたのか、ヒカルはきょろきょろと奥のほうを見ている。
「なあ、家の人は?」
「お父さんは中国に行っている。たぶん韓国のほうにも足をのばすんじゃないかな。お母
さんも付き添いで行ってる。最近は二人とも家にいないことのほうが多いよ」
ヒカルが驚いたように振り向いた。
「じゃあ、おまえ家にいつも一人?」
「いや、お父さんの門下の人が泊まりに来てくれる」
「へえー、で、今日は誰が来んの?」
アキラはヒカルの瞳を見つめた。ヒカルは自分の返事を知っているように思えた。
「今日は、誰も来ない。ボクときみの、二人きりだ」
一瞬ヒカルが緊張するのがわかった。だがすぐに何でもないような顔をして靴を脱いだ。
その様子に怒りにも似た感情が起こる。
「どうして何も言わないんだ?」
もっと動揺するとか、戸惑うとかしてもいいではないか。
「何もって? オレとおまえが二人きりだってことにか? 言ってどうするんだよ。誰が
いようといまいと、おまえはそのつもりなんだろ?」
あっさりとヒカルに言われ、自分のほうがものすごくうろたえてしまった。
たしかにヒカルの言うとおりだ。しかしそう簡単に認めるのはためらわれた。
「塔矢」
呼びかけられてアキラの心臓が跳ね上がった。
「早く案内してくれよ」
あっけらかんとした口調に拍子抜けした。良いように弄ばれている気がする。
今日の主導権は自分が握るつもりなのに、ここからすでにヒカルに負けているようだ。
(20)
居間に入るとヒカルは背のリュックをどさりと下ろした。
「なんかあんまり暖かくないな」
「うん、それのために温度を低くしてるんだ」
アキラは上着を受け取り、ハンガーに吊るしながら座卓の箱を指さした。
「何が入ってるんだ?」
「開けてみてよ」
リボンを無造作にほどき、紙をびりびりと破り捨てていくのを見てアキラは苦笑した。
「チョコレート……」
ヒカルが複雑そうな声音を出す。
「嫌いか?」
「いや、嫌いじゃないけど……まあ、いいや。ありがとな」
無理に言っているのではないかと不安になる。
だがヒカルの食べてもいいか、という言葉に一気にうれしさがこみ上げてきた。
我ながら単純である。
「いろんな形があるな。どれにしようかな」
指がさまよう。ヒカルは丸い形をしたものを選び、それを口に放り込んだ。
味わうように食べている。ぱっとヒカルの顔が明るくなった。
「あ! これオレンジの味がする!」
続いて四角い形をしたチョコをつまんだ。
「これはリンゴだ。へえ、おいしいな。果物とチョコって合うんだな」
笑顔のヒカルにアキラもつられて頬がゆるんだ。
「なかに果物のペーストを入れ込んであるんだ。“プラリネ”って言うんだって」
「聞いたことないや。それがこのチョコの銘柄?」
「違うよ。ほら、包装紙に書いてあるのがそうだよ」
ヒカルは無残な形の紙を手で押し広げていく。“LEONIDAS”という文字が見えた。
「れおにだす? 外国のチョコか?」
「そう、ベルギーのチョコレートだよ。今人気が出てるんだって」
「……おまえが買いに行ったのか?」
アキラが当たり前だとうなずくと、ヒカルはじっとチョコを見つめ、つぶやいた。
「おまえ、男なのにこういうの買うの、恥ずかしくないのか?」
その発言にアキラは少し傷ついた。
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