とびら 第六章 16 - 20


(16)
息を切らせてヒカルは棋院の玄関をくぐった。制服は着たままだった。
卒業式が終わった後、ヒカルは母親をせっついて帰宅した。だが昼食を終えたころにはすで
に対局が始まっている時間だった。
着替える時間がもったいなくて、結局ヒカルは制服のまま棋院へと向かったのだ。
今日の本因坊リーグ戦はアキラと芹澤だ。
五階に着いて対局室に向かおうとしたとき、ヒカルは一瞬ためらった。
アキラの殺意のこもったまなざしが脳裏をよぎったのだ。きびすを返しそうになる。
そんな自分を叱咤する。
(オレはちゃんとあの目を受け止めなきゃいけないんだ)
ヒカルは勢いよく対局室に入った。
対局室ではリーグ入りしているトップ棋士たちが食い入るように盤面に見入っていた。
その中に緒方はいなかった。ヒカルは少しほっとした。
戸口に近いほうに腰をおろし、棋譜をのぞきこむ。
勝負は中盤に入ったばかりだ。アキラは三段だが芹澤相手に決して負けてはいなかった。
まだどちらが勝つかはわからない。
ヒカルはアキラに目を向けた。
アキラは端座し、真剣な瞳で盤を、芹澤を見ている。一手一手に気迫がこもる。
すぐにヒカルは惹きこまれた。
アキラの碁は力強い。
どこまでも喰らいついていくその姿勢は、出会ったころから少しも変わらない。
(オレも塔矢と打ちたい)
心の底から思う。アキラと碁が打ちたくてたまらない。
碁会所に行かなくなってからもアキラと会っているのに対局はしていなかった。
それどころではない状況にしているのは、他ならぬヒカルではあるのだが。
石が打たれるたびに、ヒカルは気分がものすごく昂揚するのを感じた。
今アキラの前にいるのが自分だったらどんなに良いだろう。
こんなにも打ちたいと思わせるのは、ヒカルにとってアキラだけだった。


(17)
盤面は芹澤優勢で進み、終局した。
記者たちがどやどやと入ってきて、検討が始まった。
顔をあげたアキラは、そこにヒカルがいることに初めて気がついたようだった。
その目は驚いたように開かれたが、すぐにどこか安堵したように細められた。
だからヒカルも頬を和らげた。
検討を聞きたかったが、初段のヒカルがいることを皆がいぶかしげに見るので、しかたなく
対局室を出た。
コツン、と足音が背後から聞こえた。
「対局は終わったか?」
背筋にぴりっ、と電流が流れた気がした。恐る恐るヒカルは振り返った。
「緒方先生……」
「アキラくんは負けたのか?」
ヒカルがうなずくと緒方はわずかに息をもらした。一瞬、笑ったかのように見えた。
「俺にも負けた」
もちろん知っている。森下との対局があったため見に行くことはできなかったが。
アキラが負けたと聞いたとき、ヒカルは暗い気持ちになった。
まるっきり自分のせいだとは思わないが、影響を与えたかもしれないと思ったからだ。
しかしそれは違った。
棋譜を見て、ヒカルはアキラの強さを知った。
アキラはヒカルの前を歩いている。ヒカルの心配など余計だと言うように。
「たしかに緒方先生に負けてたけど、あいつ強くなってるよ。前よりもずっと」
緒方の頬が神経質にひきつった。
「何で今日の対局、見なかったの?」
棋院にいるのに来なかったのが不思議だった。
アキラの対局など見るに及ばないと思ったのだろうか。いや、そんなはずはない。緒方は誰
よりもアキラをかっているはずだ。
「どうして?」
緒方はうるさそうな顔をした。どこか余裕がないように見えるのは気のせいだろうか。
「……もしかして、塔矢に足元すくわれた?」


(18)
何気なく口にした一言だった。だが緒方が恐ろしい形相で睨んできた。
もしかして触れてはいけない何かに触れてしまったのだろうか。
冷めたい汗が背を流れていく。
「アキラくんはまだ俺には及ばない。わかったか」
どすのきいた声にヒカルはとにかくうなずく。逆らえば何をされるかわからない。
それでも緒方は苛立たしげに足を揺すってヒカルに言ってくる。
「おまえは今日もアキラくんを誘いに来たのか」
「対局を見に来たんだ」
「じゃあこの後は会わないんだな。ならとっとと帰ったらどうだ」
うながすように緒方は手を動かした。しかしヒカルはその場に立ったままだった。
そんなヒカルを見て、緒方は嘲笑した。
「なんだ、やっぱりおまえはする気なのか?」
その言葉は明らかに侮蔑を含んでいた。しかしヒカルは怒りを持つことはできなかった。
さきほどの対局で抱いた、打ちたいという欲求が今では別のものに姿を変えていたからだ。
「恥知らず」
ヒカルの内心を見透かしたかのように言う。
「おまえなんかに夢中になっているくせに、あいつは……まったく忌々しい」
「あいつって塔矢のこと? 塔矢がどうかしたのか?」
緒方は鋭く舌打ちをするとヒカルの腕をつかんだ。
「痛いよ、緒方先生っ」
「帰れ。俺の前に現れるな。胸くそ悪い」
強引にエレベータのところへ連れて行こうとする。ヒカルは振り払おうとしたが無理だった。
「うわっ!」
突然手を離され、ヒカルは勢いあまってこけてしまった。
身体を起こすと目の前に恐縮した様子の古瀬村がいた。
「緒方先生、いらしてたんですか。ついさっき、塔矢くんの対局が終わりましたよ。あの、
検討はご覧にならないんですか」
緒方は明らかに不愉快そうな表情を浮かべた。すると古瀬村は首をすくませた。


(19)
じろりとヒカルを一瞥すると、緒方は一人でエレベータに乗り込んだ。
その姿が消えると、すぐに古瀬村はためいきを漏らした。
「おい、緒方十段の声が聞こえたんだが」
対局室にいた記者の一人が顔を出す。
「今いたんですよ」
「で、帰ったのか?」
古瀬村がうなずくとその記者は顎を撫でながらうなった。
「塔矢くんの対局を見なかったってことは、やっぱりあの噂と関係あるのかなあ」
声を落として言う。まるで何かを含んでいるかのようだった。
「緒方十段が三段の塔矢くんを恐れてるってやつですか?」
「おい、その話はあんまりしないほうがいいぞ。変な尾ひれがつくとまずい」
他の記者が口を挟む。腫れ物に触るような話し方だ。
緒方とアキラにいったい何があったのだろうか。
「あの、緒方先生がどうかしたんですか」
古瀬村にそっと尋ねてみる。
「ああ進藤くん。いやあ、この間の対局で……」
「古瀬村! 余計なことは言わんでいい!」
「は、はい、すみません」
気まずい雰囲気が流れる。しかしそれはすぐに吹き飛ばされた。
いきなり対局室から血相を変えた塔矢アキラが飛び出してきたからだ。
「進藤!」
「塔矢? どうしたんだよ」
「緒方さんが来たって聞いたから。何かされ……」
慌ててヒカルは目線でその先を制した。アキラも興味深げに自分を見てくる視線に気付いた
ようで、口を閉じた。
「塔矢くん、今日の対局は残念だったね」
「緒方先生にも見てもらいたかった? 何てったって兄弟子だからね」
対局よりも緒方とのことを記者たちは聞いてくる。
アキラは「検討がまだありますから」と言うと対局室に戻っていった。だがすれ違うとき、
ヒカルの耳元にそっとささやいていた。待っていてほしい、と。


(20)
検討を終えたアキラは、エレベータの前で立っていたヒカルのもとにやって来た。
二人で階段のほうへと行く。
向かい合って、ヒカルは少し居心地が悪く思った。このあいだの別れが尾を引いていた。
またあんな目で見られたらと思うとたまらない。だがそれは杞憂だった。
アキラからは殺意などは微塵も感じられなかった。それどころかこちらが驚くほど、深くて
優しいまなざしを向けていた。
「この前はすまなかった」
ヒカルの瞳を覗き込みながら言う。ヒカルは首を振った。
「オレこそ、ごめんな」
「進藤……」
そっと抱き寄せられた。ヒカルはアキラの肩に顔をうずめた。
「芹澤先生のほうが、一枚上手だったな」
「うん。でも打っていて楽しかった」
本因坊リーグ戦という場面でも、アキラは碁を打つことを純粋に楽しんでいる。
「いいなあ、おまえは。高段者と思う存分、打ててさ。うらやましいよ」
早く自分もアキラと同じ場所に立ちたかった。
「でも、ボクは他の誰よりも……」
最後までは言わず、アキラは唇を重ねてきた。吐息から続きが聞こえてきそうだった。
しばらくキスだけをしていたが、ヒカルはそれだけでは物足りなくなった。
「塔矢、オレ」
目で訴える。自分の肩を抱くアキラの指先に力がこもった。
ヒカルは自覚した。自分がたしかに全身で誘っているということを。
アキラはヒカルの手を握ると、黙って階段を下りた。
外に出るのかと思いきや、アキラは事務所に向かった。
「すいません、棋士控え室の鍵を貸していただけないでしょうか」
「おや塔矢くん。忘れ物でもしたのかね。ちょっと待ってて」
あっさりと鍵は渡された。こんなに簡単でいいのかとヒカルは思った。
(塔矢だからかな。オレだったら絶対あれこれ言われる)
エレベータで七階に向かう。控え室に入るとアキラは内側から鍵をかけた。



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