ウツクシキコト 16 - 20
(16)
唇にぬるりとして生暖かいものが触れた感触に、俺は思わず目を開けていた。
ぼやけた視界に、おかっぱ頭が揺れていた。
「塔矢?」
俺は一生懸命口を動かしたけど、甲高い声がキャンキャン叫んでいるようにしか聞こえない。
「塔矢、落ちつけよ」
そう行ったんだけどさ、自分でもスンゴイ掠れた声だってわかる。
これじゃ、なに言ってるかわかんねえよな。
目を擦ってぱちぱち瞬きを繰り返すと、少しだけ視界がはっきりとした。
目の前の塔矢は、なんか一回り縮んだ感じだ。
「塔矢、おまえさ……」
今度は、さっきよりは少しだけましな声がでたんだけど、俺は最後まで話すことができなかった。
だってさ、目の前の塔矢ったらさ、頭に赤いリボン結んでんだぜ。
「なんで…?」
俺の質問に答えもしないで、塔矢はいきなり立ちあがって、キャンキャン叫びながらいなくなった。
俺は、それを見送りながら、頭を傾げてた。
だってさ、だってさ、塔矢、赤いリボンだけでも変なのに、和服なんだぜ。それも赤い袴!
「なんなんだよ、一体……」
俺の言葉が、すっとどこかに吸いこまれていく。
そうな風に感じるほど、静かだった。
(17)
俺は肘をついて、体を起こした。
俺は見たこともないような部屋に寝かされてた。
板の間に、ゴザみたいのを敷いて、その上に布団。掛け布団の代わりに着物が一枚掛けてあった。枕は、変な木の箱みたいなヤツ。
その近くに、お盆があって、木の鉢と木のスプーンがあった。
それ見て、ようやく合点が行った。
俺の唇に触れた、ぬるりとして生暖かいものは、どうやらこのお粥みたいなもんらしい。
(塔矢が食わせてくれたのかな?)
そう思ったら、自分がスゴク腹ぺこだってことに気がついた。
(食べてもいいのかな?)
食べさせようとしてたぐらいだから、食べても怒られないとは思うけど、全然知らないとこにいるから、なんとなく不安で塔矢が戻ってくるのを待とうと思った。
周囲をゆっくり見渡すと、あんま馴染みのないものが次々目に入ってくる。
天井は高くて、きれいな絵が描いてある。花とか鳥の絵。
それがちゃんとわかる程度に明るい。ってことは、どうやらまだ昼間みたい。
天井の辺りは明るいんだけど、俺の回りし少しだけ暗くなっている。
なんか衝立みたいなので、囲ってあるんだよね。
衝立も、屏風みたいなヤツじゃなくて、模様の浮きでた特別きれいなゴザみたいのが木の枠にぶら下がっている。
そうやって辺りを観察していると、スッスッって衣擦れがして、誰かがこちらに近づいてくる。
塔矢かな? って思ったら、衝立と衝立の間から、案の定おかっぱ頭がひょいと中を覗き込む。
「塔矢」と声をかけようとして、俺は寸でのところで言葉を飲みこんだ。
塔矢じゃない。そりゃ、確かに塔矢はおかっぱ頭だけど、こんな肩より長くない。
それにそれに……、目の前にいる子はどう見たって、小学生ぐらいで、間違いなく………女の子だった。
「おやかたさま!」
女の子は後ろを振り向くと、甲高い声を張り上げた。
すると、それに答えるように、穏やかな声が聞こえてきた。
「わかった、わかった。そう急かすでない」
俺は、条件反射みたいに、目頭が熱くなった。
だって、その声は俺のよく知ってる声だから……。
(18)
衝立が一つ、すっと後ろに動き、そこにするりと入りこむように姿を現したのは、
――――――佐為だった。
「佐為………」
俺はもうそれ以上、言葉に出来なかった。
ずっと会いたかった。
佐為が、いきなり姿を消して、もう何年になるんだろう。
三年? 三年は過ぎだよね。
この三年の間、夢に出てきてくれたのだって、あの扇子をくれたときだけで。
会えないってわかってたけど、それでも俺は会いたかった。
そんな俺の気持ちも知らず、佐為は女の子に丸いゴザの座布団みたいのを運ばせて、そこにあぐらをかいて座った。それからおもむろに口を開いたんだ。
「なにを泣く?」って。
「ひでーや………」
俺は、佐為が涼しい顔でこんなこと言うからさ、スッゴク悔しくって、涙なんて見せたのが悔しくて、両手の甲でぐいぐい涙を拭った。
だけどさ、とまんないんだ。
次から次って感じで、溢れてくるんだ。
やんなる。涙腺ぶっ壊れたみたいだ。
「そなた、なぜそのように泣く?」
おまえに会えて嬉しいからだなんて、言ってやるもんか。
「身体はいかがじゃ? 当家の滝口が乱暴をしてすまなかったのう。
三日もの間、意識を取り戻さぬ故、案じておった。おや、まだ葛を食しておらぬのか。コギミ」
コギミと言うのは、どうやらおかっぱの女の子の名前らしい。
佐為に「あい」と頷いてから、女の子は枕元に座り、木の鉢とスプーンを手に取った。
口元にスプーンが近づいてくる。
「自分でできるよ」
俺は自分よりずっと小さな女の子に食べさせてもらうのが恥ずかしくて、そう言った。
すると、女の子は佐為を目で伺い、佐為はのんびりと頷いた。それだけでこの二人は意思の疎通ができるようで、女の子は鉢とスプーンを俺の手に渡してくれた。
俺は、二人が見守るなか、お粥みたいなものを口に運んだ。
舌に感じたのは、仄かな甘味だった。
お粥とは全然違う味だったから、ちょっと驚いたけど、とろりとしていてまずくはなかった。ううん、美味しかった。
「これ、なに?」
「葛湯じゃ、甘蔓の汁をたっぷり落したから、甘かろう?」
俺は大きく頷くと、食べることに専念した。
(19)
佐為の話だと、俺は三日の間、気を失っていたってことだよな。
その間、さっきみたいにこの子がこれを食べさせてくれてたのかな?
でも、育ち盛りだから、これで足りるはずないよね。
俺、かなり腹減ってるみたい。
あっという間に鉢の中身は空っぽになった。
「ひもじいようじゃな。コギミ、少し早いが夕餉をこちらに運んでおくれ」
「おやかたさまは如何されます?」
「ああ、私の膳もこちらに運んでおくれ」
「あい」と頷くと、女の子はパタパタと足早に去っていった。
足音が遠ざかると、また静けさが戻ってくる。
俺は、なにから話せばいいのかわからなくて、ただただじっと佐為を見つめていた。
もしまた佐為と会えたら、あれも言おう、これも言おうって、考えたことがあった。
夢の中で扇子を渡されたとき、もう会えないんだって、なんとにく理解した。
それでも、ふとした拍子に、佐為に話しかける自分がいた。
いま、目の前に間違いなく佐為がいるのに、それだけで胸が一杯でなにも言えない。
「そなた、なぜそのような目で私を見る?」
先に口を開いたのは、佐為だった。
「目?」
佐為は、ほんの少し眉をひそめて、頷いた。
「そうじゃ、いまにも泣き出しそうな瞳で、私を見ているぞ。
当家の滝口に責められているときも、いまのような瞳で私を見ておった」
「だって……」
葛湯のおかげか、目覚めたときよりはかなりましになったけど、やっぱりまだ声はがさついている。
「大儀か?」
「タイギ?」
「身体は辛くないか?」
俺は頷いた。絶好調じゃないけどさ、蹴られた腹と背中を別にすれば、頭痛もないし、かなり楽。
「それでは、膳が運ばれるまで、少し話そうか」
「うん」と俺が返事をすると、佐為はふわっと笑ってくれた。
「まず、聞きたいことが二、三ある。そなた、名をなんと申す?」
俺は自分の耳を疑った。
「なぜ、私の名前を知っておるのじゃ?」
そのとき、俺の心臓は絶対鼓動を打つことを忘れていたと思う。
そのぐらい、佐為の言葉は、ショックだった。
(20)
頭がかーっとして、怒鳴りつけたいのか、泣きたいのか、どっちがどっちだかわかんなかった。寒くもないのに歯がカチカチ鳴って……、それが嫌でグッと奥歯を噛み締めた。
「うん? 何故そのように怖い顔をする?」
佐為こそ、怖いぐらい真面目な表情だった。
「佐為――――」
しかし、俺はその先を続けられなかった。
衝立がすっと動かされ、女の人たちが膳が運んできたんだ。
その人たちのいでたちに、俺は本当になんて言っていいかわからなかった。
「嘘だろ……」と呟くのが精一杯だった。
顔を俯き加減にして、衝立の中に入ってきたのは、"雛人形"だった。
いや、あのね、本物の雛人形じゃないよ。
ちゃんとね、れっきとした大人の女の人だ。
でもね、着てんのが雛人形の衣装みたいなんだ。
十二単っていうの? 何枚も着物を重ね着にして、下は袴。
髪の毛は床に届くぐらい長くてさ。
顔は見えなかった。だってさ、凄いんだよ。重そうなお膳をさ、片手でもって、もう片方の手で扇子開いて顔隠してんだよ。お膳置くとき、手がプルプルしてんの。重けりゃ両手で持てばいいのに。
「何故、顔を隠す?」
俺の疑問を、先に言葉にしたのは佐為だった。
「鬼の子に顔を見せては……」
蚊の鳴くような小さな声で、女の人はそう言った。
「鬼の子ではないと、言ったつもりだが?」
「前髪が……」
「髪は病やなにやらで色が抜けることもあると、薬師が申していたではないか」
「………」
女の人は黙りこむ。
佐為はしばらく睨んでいたけど、ふうってため息ついて、女の人に命じた。
「食事の後に醍醐を持て。水菓子を添えてな」
「お館様も……?」
「私はいらぬ」
女の人は、軽く頭を下げるとみな一斉に席を立った。
後に残ったのは、俺と佐為とコギミという女の子だけだった。
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