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(16)
そうだ、認めたくはないがボクは進藤が好きだ。
多分、異性を好きになるのと同じように。
解っていたんだ、本当は。認めたくないだけで。
刹那、アキラは鋭い痛みを感じた。
アイスピックが左手の甲を傷付けて、そこから血が滲んでいる。
「本当にバカだな、ボクは……」
血が出るのも構わず、強く手を握り締めた。
客間に戻り、ヒカルの頭を軽く持ち上げ、氷枕を敷く。
先程より息が荒くなっているのが気になった。
外に出ていたヒカルの腕を布団の中に戻していると、呼び鈴が鳴った。
その時まですっかり忘れていたのだが、アキラは家に着いてすぐに、
小さい頃から掛り付けになっている医師に往診を頼んでいたのだった。
「解熱剤を打っておきましたから、すぐに良くなりますよ。
少し疲れているようだからゆっくり休ませてあげると良いでしょう」
「ありがとうございました」
「また、何かあったらすぐに呼んで下さい」
年輩の人好きのする医師は皺だらけの顔を一層くしゃくしゃに歪めて微笑む。
その医師には幼い頃からお世話になっている所為か、
両親が不在になってる事が増えた最近はよく気に掛けて貰っていた。
玄関まで医師を見送るとその足で洗面所に水を汲みに行く。
適度な大きさのタオルを見つけて水を溜めた洗面器に浸し、それをヒカルの額に当ててやると、
ヒカルが僅かに身じろぎした。
瞬間柔らかい髪が、手に掛かり、思わずアキラは手を引っ込めた。
(17)
彼は何分程そのままそこに居ただろうか。
ヒカルの呼吸はずっと穏やかになり、今はすぅすぅと静かな寝息を立てていた。
薬が良く効いているのだろう。苦しげだった表情も、落ち着いている。
アキラは飽きる事なくただただヒカルを見つめていた。
痩せたな、と思う。
小学生の頃のヒカルはどこかふくふくとしていて、愛らしい子供だった。
けれど今、長い睫が頬に影を落としているその顔に、過ぎし日の面影は微かにしか残っていない。
中学三年生の頃、ヒカルは一時期に急激に変化した。
成長といえばそうなのかも知れないが、著しい成長というよりはやはり変化の方がしっくり来る。
決意を秘めた瞳の力強さも、時折垣間見せる憂いのある表情も、それまでの彼にはなかったものだ。
酷く悩んでいた時期があって、けれどそれを乗り越えた時、アキラの前に現れたヒカルは
今までにないほど強い自我を持って見えた。
勿論、今日に到るまで一度たりとて、その『悩んでいた事』について触れた事はない。
その後の対局で触れた『彼についての謎』に関しても、話したその日以降は一度も話題に上らなかった。
「あ……や、いや、だ……」
微かに聞こえるヒカルの声にアキラはその顔を覗き込んだ。
「進藤……?」
「い、やだ、……いくな……」
息を多分に含んだそれが寝言だという事はすぐに分かった。
堅く閉じられた双眸から、涙が零れている。
自分はここにいるべきじゃないと自覚したアキラはそっと立ち上がった。
「……いくな、…さ、い……」
襖を閉じる瞬間、聞こえた最後の言葉はいつまでもアキラの耳に残った。
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病人がいるのなら店屋物にする訳にはいかないと思い、アキラは数日振りに炊事場に立った。
冷蔵庫には幸い、日持ちのするものの買い置きがある。
ヒカルは全般的にジャンクフードが好きだが、それでも味には煩い所があったので、
とりあえず普通のお粥はやめておく事にした。
鶏ガラスープをベースに煮立たせた粥に、塩で少しだけ味をつけて長葱と油条を添える。
碁会所の市川に教えて貰った作り方だが、まさかこんな所で役に立つとは思わなかった。
ただでさえ食には無頓着な所があるアキラだ。
多分自分の為にだったらこんな手の掛かるものは作らなかっただろう。
出来上がった中華粥は、アキラの知っている病人食とは掛け離れたものだった。
だが、幸い消化は良さそうだったので、ヒカルの食欲さえ戻っていれば食べれない事はないだろう。
けれど、もし食欲もなかったらどうするべきか。
林檎とか、スポーツドリンクとかを買ってきた方が良いのだろうか。
そう考えてアキラが財布を取りにいこうとすると、台所の戸口にヒカルが立っていた。
「進藤! 起きていて大丈夫なのか?」
驚いて訊ねると、ヒカルはまだ少し寝惚けているのか、目を擦りながら裸足のまま
ペタペタと歩いてきた。
「塔矢……」
すぐ傍まで来て、あ、と小さく声を上げた後少し離れる。
二人の間に出来た間隔は友人としての距離でも、知り合いとしての距離でもなかった。
「ご、ごめ……オレ馬鹿だからすぐに忘れちゃって……」
熱の余韻か、目許を赤らめたヒカルが申し訳無さそうに俯くのを見て胸が痛んだ。
アキラのいった事を気にしていたのだろう。
なのに、この距離を寂しいと感じる自分は身勝手だとアキラは思った。
ヒカルの腕を強く引いて、思いきり抱きしめる。
「うわわ、な、何?」
「いいから」
手をばたばたと振ったヒカルはアキラの強い一言に押し黙った。
なんだよ、も〜、といいながらもまだ身体がだるいのか、アキラに凭れ掛かる。
「昨日の事、済まなかった。少なくともボクの事に関しては嘘だよ。
嘘だから、そんなに……距離を取らないでくれ」
「?? なんだ、そんな事気にしてたのかよ」
余りにもあっけらかんとした返事に、アキラは、自分はもっと気にしていた癖に、と心の中で悪態をついた。
「……って、それでコレかぁ? お前ってほんっと極端だよな〜」
良かった、元気だ。アキラはヒカルに気付かれないようにそっと息をついた。
「じゃ、もういいだろ?」
「…… ……待ってくれ、ちょっとまだ……」
「へ? あ、ああ、そっか」
しょうがねぇなぁと笑うヒカルはアキラの『待った』をどうとったのか、
くつくつと笑いながら自らも腕を回し、アキラの背中を軽く叩いていた。
(19)
暫くしてアキラはヒカルが笑っていた訳が漸く分かり始めていた。
引っ込みがつかないのだ。
あんな事をいって、抱き着いてしまったのは良いが、この後、自分は一体どんな顔をすればいいのだろう。
焦れば焦る程、思考は空回りし、ふと目に入った項に視線は釘付け。
ゆったりと着せた浴衣の襟口からは滑らかな背中のラインが丸見えだった。
ともすれば血液が集まってしまいそうな下半身を、意識下で必死に宥める。
好きだと気付いた途端に、あまりにも素直な反応を示す自分のあまりの情けなさに
アキラは泣き出したい気持ちだった。
だが泣いている場合ではない。
ヒカルはくたびれたのか、ねーまだー?と聞きながらいよいよ全身の体重をアキラに預けてきた。
まずい。非常にまずい。
どうして来客用の寝間着はこんなに薄いんですかお母さんと、異国の空の下にいる筈の母に
心の中で理不尽な怒りをぶつけてみても仕方がないのは百も承知だ。
なのに、そうせずにいられないのは、今雑多な事に思いを馳せていないと
きっと取り返しのつかない事になるのが分かっているから。
そうこうしている間にもヒカルは欠伸をして、その際に漏れた熱い息が首筋に当たる。
そして、頭をアキラの肩に凭れかけると、小さな子供がむずかるように頬を擦り付けてきた。
頼むから、これ以上刺激しないでくれ、進藤。
しかし、アキラの心の葛藤はヒカルには届かなかった。
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「なぁ、もういいだろ?」
ひょいと顔を起こすと、アキラの耳許でそう囁いた。
「…… …… …… …っ!!」
ビクンと大きく震えた身体に、逆にヒカルも驚かされる。
真っ赤になって口をパクパクさせてるアキラに気付くと、ヒカルは悪戯っ子めいた笑みを見せた。
「何? お前、耳弱いんだ?」
「なっ……!」
「へへ〜、面白い事知ったな」
言うが早いかまたさっと耳に口を近付けて息を吹き掛けようとする。
同世代の男子が興ずる遊びにしてはやや幼稚だったが、今のアキラには笑えない遊戯だった。
慌てて避けようとした瞬間にヒカルの口がアキラの耳朶を掠めた。
「………っ」
危うく声を上げそうになって口を押さえると、ぐう、という妙に間抜けな音が響いた。
するとヒカルが少しだけ頬を赤らめて、笑った。
「ごめん、オレの方がタイムアウト」
どうやら、ヒカルの腹の音だったらしい。
「そっか、そういえば何も食べてなかったんだ」
お茶を濁せたらしいことに、アキラは胸を撫で下ろす。
「……なんか良い匂いする」
「中華粥を作ったんだよ。食べる?」
返事は待たなくてもその表情で明白だった。
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