日記 161 - 165


(161)
 ヒカルは、植え込みのブロックの上に腰を下ろし、人の流れをぼんやりと見ていた。
―――もしかしたら、緒方の車が通るかもしれない…アキラが偶然ここに来るかもしれない…
そんな淡い期待を抱いていた。
 『ばっかでぇ…来るわけねえのに………』
来てくれたとしても、ヒカルには何を話せばいいのかわからない。どうせ、隠れるか逃げること
しか出来ないのだ。
 ヒカルは立ち上がった。いつまでもここにいても仕方がない。帰らないと両親が心配するし、
また、怖い目にあうかもしれない……ズボンの汚れを払っていると、後ろから声をかけられた。
アキラでも緒方でもない。だけど、よく知っている人の声だった。
「…………伊角さん」
手を振って、自分の方へ駆けてくる相手を驚いて見つめた。
『……どうしよう…会いたくない…』
 ヒカルは、背中を向けて、走り出した。よたよた走るヒカルに伊角は、簡単に追いついた。
「待てよ。」
肩を掴まれ、くるりと反転させられた。
「どうして逃げるんだよ?」
「……別に…逃げてなんか…」
俯いてモゴモゴと口ごもる。そうだよ。逃げたいわけじゃない。でも………
 肩におかれたままの手が妙に気になる。きっと自分の気にしすぎだ。だが、先ほどのことも
あり、ヒカルは必要以上に伊角を警戒していた。
「病気だって聞いたぞ?こんなところをフラフラしていて大丈夫なのか?」
気遣わしげな声音に思わず顔を上げた。声同様に心配そうに自分を見つめる瞳がそこにあった。
「伊角さん……」
 ヒカルは伊角を慕っていた。頼りになるお兄さん。大好きだった。……………そして、
和谷のこともそう思っていた。
 けれど和谷は自分を裏切った――――――ヒカルは唇を噛みしめた。
「どうした?気分が悪いのか?熱があるんじゃないのか?」
伊角の手が、額に触れようとした。咄嗟にその手を払いのけた。
「何でもねェ…何でもねェよ……!」
身体を捩って、肩に置かれた手もはずした。そのまま、ヒカルは伊角から身体一つ分離れる。


(162)
 「………進藤…」
逆毛を立てて威嚇する子猫のように自分を睨み付けるヒカルに、伊角は払われた手の持って行き場を
失ってしまった。
「どうしたんだよ…お前…」
伊角が一歩近づくと、その分だけヒカルは後ずさった。
「何でもネエったら!」
ちょっとでも触れたら、噛み付いてやる!と、言わんばかりのその瞳には、警戒と不安と
怯えが
入り交じっている。
 進藤はおかしい―――――最初に見たときはあまりの変わりように愕然とした。人違いでは
ないかと何度も目を瞬かせて確認した。掴んだ肩のか細さや、やせた頬の青白さは伊角を
慌てさせた。そして、それは外見だけの変化だけではない。ヒカルの中の何か確実に変わっていた。
 無理矢理ヒカルの腕を取ると、身体がビクリと震えた。
「や…離してよ…」
「進藤…どうしたんだよ?」
 道行く人が自分たちに好奇の視線を向ける。カップルの痴話喧嘩と間違われているのか
ひやかしたり、ヤジを飛ばしたりする。
『冗談じゃない…コイツは男だぞ…コイツのどこを見れば女と間違えるんだ…』
そう思いながら、自分から逃れようと抵抗するヒカルの顔を見直した。
 少女めいた華奢な作りの目鼻立ちや、折れそうなくらい細い身体をマジマジと見てしまった。
『進藤って、こんなだったけ?』
確かに以前から可愛らしい顔をしていたが、もっと少年らしい明るさや元気さを持っていたはずだ。
こんな…胸を騒がすような…こんな……身体の奥がざわめくような…色気はなかった…
 そんな自分の胸中を読んだかのように、ヒカルの顔色がサッと変わった。伊角の手を
振り解こうとますます激しく暴れる。
「やだ!離して!離せよ!」
「進藤…」
伊角は困り果てた。今のヒカルは酷く興奮していて、自分が何を言っても聞きそうになかった。


(163)
 そのヒカルの抵抗が、突然、ピタリと止んだ。驚愕に見開かれた瞳が、自分の後ろを
凝視している。
 伊角は後ろを振り返った。今日、自分が会う予定の人物が呆然と立っていた。
「和谷…ちょうどよかった…ちょっと来てくれ…進藤が…」
そこまで言ったとき、ヒカルの身体から、カクンと力が抜けた。ズルズルとその場にへたり込むと
身体を縮めて震え始めた。
「進藤?」
驚いて手を離した。ヒカルは両手で頭を庇うように蹲っている。
「やだ…やめて…お願い…」
その身体に触れようとすると、ヒカルは小さく悲鳴を上げた。
「や…殴らないで…助けて…助けて…」
震えながら何度も懇願する。伊角は、ヒカルの側にしゃがんだ。
「殴らないよ…大丈夫だ…誰もそんなことしないだろ?どうしたんだよ…?」
伊角の問いに答えず、ヒカルはただ、「助けて」と「許して」を繰り返し続けた。
 ヒカルをこのまま放っておく訳にはいかない。何とか連れて帰らなければ……。ヒカルの
腕を取って立たせようとすると、激しく首を振ってますます身を縮めた。


(164)
 「和谷…!何してんだよ…早く来いよ…!」
黙って立ったまま動こうとしない和谷に、イライラと言い放った。和谷は苦しげに顔を歪めて、
ただ突っ立っているだけだ。
「和谷!」
伊角の怒鳴り声に、ヒカルはビクリと身体を揺らした。
「………怖い!」
身体を竦ませるヒカルを慌てて宥めた。
「すまない…お前に言ったんじゃないんだ…」
伊角はヒカルを怖がらせないように、目で和谷を促した。だが、和谷は伊角を見てはいなかった。
彼の視線はヒカルに釘付けだった。そして、ヒカル自身は和谷の視線を避けるように蹲っている。
 和谷は小さく呻くと、二人に背を向け逃げるように走り去ってしまった。
「え?」
突然の和谷の行動に、伊角は間の抜けた声を上げた。そして、後ろ姿が完全に見えなくなるまで、
ボケッと見送ってしまった。
『…………………ちょっと待て…こんな状態の進藤を見捨てる気か?』
どういうつもりだ…!腹が立った。通行人は相変わらず、じろじろと遠慮のない視線を
浴びせかけてくる。
 だが、恥ずかしいなどと言ってはいられない。まずは、ヒカルを落ち着かせなければならない。
伊角は、辛抱強くヒカルを宥め続けた。ゆっくりと優しく慰める。
「大丈夫だ。誰もお前に何もしないから…泣かなくていいから…」
躊躇いながらも、ヒカルの髪に触れた。ヒカルは、一瞬、身を竦ませたものの先程のように
振り払ったりはしなかった。
「帰ろうな?」
ヒカルは一度だけ小さく頷いた。


(165)
 まだ、宵の口だったおかげか、すぐにタクシーを捕まえることができた。後部座席に
ヒカルを抱きかかえるようにして乗せ、自分も後に続いた。住所はうろ覚えだが、場所は知っている。
 ヒカルは、今は、伊角に身体を預けてぼんやりと空を見ている。肩の辺りにヒカルの
体温を感じて何故だか胸の鼓動が早くなった。
「伊角さん……」
ぼうっとしていたはずのヒカルに、突然話しかけられてびっくりした。
「……!な…どうした?」
声が上擦る。
「ゴメン…迷惑かけて…」
「いや…そんなこと…」
迷惑だなんて思ってはいない。むしろ嬉しかった。今、ヒカルを守れるものは、自分以外に
いないと感じたとき、不思議と胸が昂揚した。
「………お母さんたちにこのこと言わないで…」
これには同意しかねた。ヒカルの様子は明らかにおかしかった。たぶん、家の人も気が付いて
心配しているはずだ。ヒカルの頼みなら何でも聞いてやりたいが、これは……。
「お願い…」
涙の滲んだ大きな瞳で見つめられ、伊角は両手を上げて降参した。



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