日記 163 - 165
(163)
そのヒカルの抵抗が、突然、ピタリと止んだ。驚愕に見開かれた瞳が、自分の後ろを
凝視している。
伊角は後ろを振り返った。今日、自分が会う予定の人物が呆然と立っていた。
「和谷…ちょうどよかった…ちょっと来てくれ…進藤が…」
そこまで言ったとき、ヒカルの身体から、カクンと力が抜けた。ズルズルとその場にへたり込むと
身体を縮めて震え始めた。
「進藤?」
驚いて手を離した。ヒカルは両手で頭を庇うように蹲っている。
「やだ…やめて…お願い…」
その身体に触れようとすると、ヒカルは小さく悲鳴を上げた。
「や…殴らないで…助けて…助けて…」
震えながら何度も懇願する。伊角は、ヒカルの側にしゃがんだ。
「殴らないよ…大丈夫だ…誰もそんなことしないだろ?どうしたんだよ…?」
伊角の問いに答えず、ヒカルはただ、「助けて」と「許して」を繰り返し続けた。
ヒカルをこのまま放っておく訳にはいかない。何とか連れて帰らなければ……。ヒカルの
腕を取って立たせようとすると、激しく首を振ってますます身を縮めた。
(164)
「和谷…!何してんだよ…早く来いよ…!」
黙って立ったまま動こうとしない和谷に、イライラと言い放った。和谷は苦しげに顔を歪めて、
ただ突っ立っているだけだ。
「和谷!」
伊角の怒鳴り声に、ヒカルはビクリと身体を揺らした。
「………怖い!」
身体を竦ませるヒカルを慌てて宥めた。
「すまない…お前に言ったんじゃないんだ…」
伊角はヒカルを怖がらせないように、目で和谷を促した。だが、和谷は伊角を見てはいなかった。
彼の視線はヒカルに釘付けだった。そして、ヒカル自身は和谷の視線を避けるように蹲っている。
和谷は小さく呻くと、二人に背を向け逃げるように走り去ってしまった。
「え?」
突然の和谷の行動に、伊角は間の抜けた声を上げた。そして、後ろ姿が完全に見えなくなるまで、
ボケッと見送ってしまった。
『…………………ちょっと待て…こんな状態の進藤を見捨てる気か?』
どういうつもりだ…!腹が立った。通行人は相変わらず、じろじろと遠慮のない視線を
浴びせかけてくる。
だが、恥ずかしいなどと言ってはいられない。まずは、ヒカルを落ち着かせなければならない。
伊角は、辛抱強くヒカルを宥め続けた。ゆっくりと優しく慰める。
「大丈夫だ。誰もお前に何もしないから…泣かなくていいから…」
躊躇いながらも、ヒカルの髪に触れた。ヒカルは、一瞬、身を竦ませたものの先程のように
振り払ったりはしなかった。
「帰ろうな?」
ヒカルは一度だけ小さく頷いた。
(165)
まだ、宵の口だったおかげか、すぐにタクシーを捕まえることができた。後部座席に
ヒカルを抱きかかえるようにして乗せ、自分も後に続いた。住所はうろ覚えだが、場所は知っている。
ヒカルは、今は、伊角に身体を預けてぼんやりと空を見ている。肩の辺りにヒカルの
体温を感じて何故だか胸の鼓動が早くなった。
「伊角さん……」
ぼうっとしていたはずのヒカルに、突然話しかけられてびっくりした。
「……!な…どうした?」
声が上擦る。
「ゴメン…迷惑かけて…」
「いや…そんなこと…」
迷惑だなんて思ってはいない。むしろ嬉しかった。今、ヒカルを守れるものは、自分以外に
いないと感じたとき、不思議と胸が昂揚した。
「………お母さんたちにこのこと言わないで…」
これには同意しかねた。ヒカルの様子は明らかにおかしかった。たぶん、家の人も気が付いて
心配しているはずだ。ヒカルの頼みなら何でも聞いてやりたいが、これは……。
「お願い…」
涙の滲んだ大きな瞳で見つめられ、伊角は両手を上げて降参した。
|