平安幻想異聞録-異聞- 165 - 170


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「そうだ、さっきはすまなかった」
「え?」
「お前にこんな事をさせる奴は、…確かに敬称をつけて呼ぶ必要はないな」
星明かりを背中に配した伊角の表情は、黒い影になって、ヒカルには
わからなかったが。


伊角が去って、情交の疲れを眠りで癒していたヒカルは、ほどなく視線の
ようなものを感じて目を覚ました。
なんとなく気になり、体の動きが鈍いのを無理して、中庭に面する高欄の
縁まで出てみる。
視線の源を探すと、座間邸敷地の中央に位置する寝殿のその屋根に、
一羽の鳥が留まってこちらを凝視しているのに気がついた。
カラスにも似ていたが、体はやや細く尾羽が長い。何よりその体はただ
漆黒なだけでなく、肩のあたりと腹が染め分けたように純白をしている。
ヒカルはその鳥を、佐為の家の絵巻物で見たことがあった。
カササギ――この世とあの世を行き来する鳥。
唐の国にしかいないと言われるこの鳥が、なぜこんなところにと疑問に思う
間も無く、その鳥はふんわりと羽根に風をためてヒカルの目の前に降り立った。
それから、足元にポトリと小さな結び文を落とすと、羽音もさせずに
飛び去ってしまう。
ヒカルはその文を拾い、広げた。
賀茂アキラからの手紙だった。
小さな紙に、短く簡潔に。
必ず助ける手立てを算段するから、今しばらく耐えて欲しいと。
この手紙も、先に伊角に託して渡した札も、座間に見つからぬよう、
くれぐれも気をつけるようにと。
そして、その手紙の隅にそえられた、慣れ親しんだかの碁打ちの人の文字。
体に気をつけて、と、たった一言。
文からは、ヒカルの好きなあの菊の香の薫りが幽かにしていた。
ヒカルは、たったひとり、その手紙を抱きしめて、夜が明けるまで
声を殺して泣いた。


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「ここは、こちらより、あちらの方に石を置いた方がようございました」
清涼殿の一角、帝を前に、佐為の凛としながら穏やかな声がひびく。
近頃は参内も休みがちな佐為であったが、かといって帝への囲碁指南は
完全に休業してしまうわけにもいかず、こうして仕方なしに出仕している。
碁石をはさむ指先の形は、あいかわらず周囲の者が溜め息をもらすほどに
美しかったが、
その白い皮膚は、細かい擦り傷などで、見る影もない有り様だった。
近衛ヒカルの身が座間の元へと渡り、賀茂邸にその事情を聞きに行ったあの夜
以来、佐為は毎夜のように、ヒカルを縛る元になる蠱毒の壺をさがして都の夜を
さまよっている。
最初の日に、賀茂アキラが書き出した、壺が隠されている心当たりのある場所の
見当をたよりに、アキラと供に歩き回り、建物の影や下をのぞき込み、土の色
が変わっている場所、落ち葉がかき分けられている場所を注意深くさぐる。
壺の周りには結界が張られているために、式神には見つけることが出来ない。
だからすべて人である自分とアキラの、目と耳と手が頼りだった。
壺はその呪を掛けられた者の、ゆかりの場所に隠されることが多いという。
手始めは近衛家の周りから、ヒカルの祖父の許可をもらってあちらこちらを
掘り、ヒカルの常の寝所の床板をはがすことまでし、次には佐為の家、碁会所、
さらに検非違使庁の建物にまで足を伸ばした。
夜中、闇に乗じて佐為とアキラは盗人のように、検非違使庁の棟に忍び寄り、
月影に隠れて床下を調べまわりの土を掘り起こす。
なれない鋤や土ヘラを持つ手にはマメが出来、掘り起こしている最中にその鋤の
先などにカチリと硬い物などにあたれば、矢も楯もたまらなくなって道具を放り
だし、手でその正体を確かめようとするものだから、柔らかな指先は土と血に汚れ、
爪は割れて、無残なさまになっていた。


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気がせいて、昼も夜もなくその作業を続けたいのが本音だったが、そうもいかない。
そうして参内するからには、恐れおおくも帝の囲碁指南という大任を任されて
いるのだし、せめてその仕事の最中は、自分のやるべき事に集中しようと思い、
実際に碁石を持てば、常の習いでスッと心は盤面の宇宙へと収束して落ち着くのだが、
例えばこうして帝が長考に入ったとき、佐為の指導の言葉を吟味しはじめ部屋が
静まりかえってしまった時、心は別の所へ飛んでしまう。
思い出されるのは、あの菊の宴。
皆の前で舞いを舞って見せたヒカルの、その血の気の薄い頬に落ちる青白い睫毛の影。
遠目にも彼が疲れているのがわかった。
本当に座間邸で不自由な思いをしていることは無いのだろうか?
あの最初の日の左手首の傷以外、外傷らしいものは見当たらなかったが……。
思惟の表情でうつむき、手の中の白石を玩んでいた佐為に、帝が声をかけた。
「さても。わが囲碁の師は、今は碁よりも大事なものがあると見えるな」
「いえ、決してそのような……」
「よい、もう慣れたわ」
佐為は自分の心の弱さを呪った。だが帝は怒った様子はない。
「鹿も恋に鳴くこの季節よ。女の噂のひとつも聞かぬそちが、そのように碁が乱れる
 ほど誰かを物狂おしく思う様は、なかなか見物じゃ」
「申し訳ございません。次はこのような事は決して」
「叱っているのではない。むしろ、そちにもそのような人間臭いことがあるかと
 感心しておる」
佐為は体を小さくするばかりだ。
「思いが通じるとよいのう」
帝が席を立った。
佐為は深々と頭を垂れた。


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しばらく向かい合う者のない碁盤の前に座って、心を落ち着ける。
元々碁の腕を磨く事ばかりが好きで、人と付き合うことはわずらわしいとしか
思ったことのない自分に、このような大任は荷が重い。腹に一物もつ貴族達の
中で生活するのに、今のように一々考えてる事が表にでるようでは、とてもでは
ないがこれからやっていく自信など無い。やはり藤原行洋にも願い出て、お暇を
いただこうかなどと考えながら立ち上がり、退出する。
溜め息をつきつつ向かった清涼殿の出入り口で、佐為は出来れば今は顔も
見たくない人物と、ばったりと鉢合わせしてしまった。
座間長房と菅原顕忠であった。
思わず、その後ろに自分の見知った金茶の髪の色を探したが、彼らの後ろにヒカルは
いない。
当然だ。ここは帝のおわす場所。貴族でも一部のものの出入りしか許されない場。
ヒカルは、もし今日も参内していたとしても、宜陽殿あたりで控えているのだろう。
「道を開けられよ、佐為殿」
菅原が口を開いた。
清涼殿の出入り口は、三人が肩を擦りあわせずに出られるほど広くはない。
しかし、佐為は動かず、じっとその二人を睨みつけた。
菅原が馬鹿にしたように鼻を鳴らし、肩で佐為を突き飛ばすようにして通って行く。
座間も菅原が作った通り道を、佐為の顔を横に見ながらどこか勝ち誇ったような
笑みを浮かべ、歩き過ぎようとした。
佐為と座間の肩が触れ合うほどに近くすれ違おうとした、その時、佐為が言葉を
紡いだ。
「座間殿の新しい警護役の者…先日から顔色が優れないように見受けられるのですが、
 体の加減はどうなのでしょうか?」
座間が興味深げに振り向いた。だが、答えたのは菅原。
「座間様の警護役の身の心配など、そなたがすることではないであろう。
 差し出がましい!」
「差し出がましくて結構! 座間様は殿上に広く名の知れたるお方。そう無体な
 真似をするとは思いませぬが、あの者の顔色を見るにつけ、心配はつのる
 ばかりですゆえ」


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「無礼な。その言い方、まるで座間様があの警護役を粗略に扱っているような
 言い方ではないか。これだから下賎の中で育った者は、口の聞き方をしらんと言う
 のじゃ。このような者を殿上に上げて、囲碁指南役などという大役を任せる
 藤原行洋殿の気が知れぬ」
行洋の名を出されて、佐為のまなじりが鋭く細められる。
「おおかた、そなたの母と同じく色仕掛けで、藤原行洋殿をたらしこんだか。
 親子そろって目端の効くことよ。佐為殿は今もこの美形振り、十年も前なら、
 どんな公達も涎をたらす美童であったろう。その美童を閨で独り占めとは
 行洋殿も隅におけぬわ」
度を過ぎる菅原の侮辱の言葉。佐為はそれを努めて平静を装って受け流そうとした。
その類いの陰口は実は今に始まった事ではない。
「顕忠殿。御自分がそのような下衆な立ち回りしか出来ないからといって、
 他人までそのように下衆な行動しか出来ぬものとは考えぬことですな」
「なんと、この顕忠を下衆と申すか! うぬこそ検非違使を寝所に引き込み、
 閨の術をしこんで楽しむようなことをしておったくせに! さしずめその閨房術も、
 貴殿が行洋殿から閨で直接伝授されたものではないのかのう? 貴殿が隠しても
 あの検非違使の体がそう言うておるわ! 下衆はどちらじゃ」
佐為がその菅原の言葉の意味を問いただす隙もなく、今度は座間が口を開いた。
「顕忠、あまり乱暴な口をきいてはならん。こちらのお方は恐れ多くも帝の
 囲碁指南役じゃ。――安心されよ、佐為殿。あの検非違使は、わが屋敷にて
 立派な部屋を持たせ、専用の侍女もあてがって世話をさせておる。せっかく
 捕らえた珍しい野趣の鳥じゃ。飼い殺しにするのも惜しいのでな。心配せぬでも
 毎夜、可愛いごうておる」
座間は面白そうに佐為を見る。
「しかし、佐為殿、野の鳥も馴らせば飼い主に応えるものよのう。――夜な夜な、
 愛でれば高く低くよい声で啼きよるわ」
自分の顔から血の気が引くのを佐為は感じた。
わかった。わかってしまった。
ヒカルが座間の屋敷で何をされているのか。座間にどういう扱いをされているのか。
頭で理解するより先に、心が反応した。
次の瞬間、佐為の身を包んだのは、総身の毛が逆立つような激しい怒りだったのだ。


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「かの竹林で弓月を見上げながら賞味した折りには、まだ身も硬く、
 枝からもぐには硬い果実に思われたが、先日もう一度口にしてみれば、
 これはいかなるわけか。何時の間にやら良い具合に甘く熟しておる。あの身を
 柔らかく解きほぐしたは、どこのどなたかとも思うたが…」
卑俗な笑みを浮かべて、座間が佐為を真正面から見た。
「考えるまでもなく、ひとりしかおらぬのう。今、儂の目の前におられるこの
 お方が、涼しい顔はしていても、据膳を前に手を出さずにおれるほど俗世離れは
 していないようで、儂も安心したわい」
佐為は目を閉じた。
想像してしかるべきだった。
座間が、あの下弦の月の夜の下、帰路のヒカルを捕らえて何をしたのか思えば、
こうなる事は考えておくべきだったのだ。……いや、心の奥底では分かっていた。
わかっていて、その不安を心の隅に追いやり、目をふさいでいたのかもしれない。
皆が菊酒に酔う中『綾切』を舞ったヒカルの姿がまぶたの裏に蘇る。拍子に合わせて
運ぶその足を少し引きずるようにして、足元を確かめながら歩を進めていた。元気な
時のヒカルなら、あの様な歩き方は絶対にしない。立っていることさえ危ういほど、
その疲労は深いのだと、その仕草に思い知らされた。
「あのように、後ろを責められて、こちらのやりよう次第でいかようにも啼くように、
 佐為殿があの鳥を仕込んで下されたおかげで、楽しい夜を過ごさせてもろうておる」
追い討ちをかけるように座間の言葉が佐為を打つ。
だが、佐為の耳をよぎるのは三日前、最後に聞いたヒカルの声。
――『うん…平気。大丈夫だよ』
ヒカルはいったい、どんな気持ちであの言葉を言ったのだろう?
……切られるように胸が痛んだ。



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