日記 166 - 170


(166)
――――パチ
 一人碁盤に向かう。手は淀みなく石を並べていくが、心はそぞろだった。様々な想いが胸に
去来した。
 本当に、ヒカルをあのまま置いてきてしまって、よかったのだろうか―――――アキラは後悔していた。
いくらヒカルが望んだからといって、本当に帰ってよかったのか……子供のように身体を
縮めて震えているヒカルの姿が脳裏に浮かんだ。
「どうして…進藤…」
 自分が求めているようにヒカルもアキラを求めている。それは間違いない。だけど、
ヒカルは何かに傷ついていて、その何かのためにアキラを拒んでいるのだ。
「緒方さんは、教えてくれないだろうし……。」
やはり、ヒカルの友人に訊いてみた方が良いのだろうか?
 最初に和谷の顔が浮かんだ。ヒカルの院生時代からの友人で、一番仲の良い……そして…
いつも挑むような目で自分を睨み付けてくる。
 溜息が出た。彼に訊くのは躊躇われた。他に誰か………あの人はどうだろうか?いつか、
ファミレスで会った人。確か…伊角…さん…とか言ったっけ………。ヒカルがとても懐いていた。
優しそうな人だった。
 伊角に相談するのは、とてもよい考えに思えた。彼もヒカルを可愛がっているふうだったから、
きっと手を貸してくれる。アキラとヒカルのじゃれあいをあきれながらも笑って見ていた。


――――――あれから何日たったっけ……。ずっと前のような気もするし、ついこの間のような気もする。
嬉しそうにポテトを頬張っていたヒカル。快活な笑い声が耳にずっと残っている。
「あの時はまだ、進藤はいつも通りの進藤で……」
明るい笑顔、無邪気な仕草。眩しい夏の陽射しそのままのヒカル。
「ボクに、風鈴をくれた……」
 窓の方に視線を向けると、あの時と変わらず愛嬌のある金魚が揺れていた。あの日以来、
ヒカルの肌には触れていない。一人で眠る夜は、胸の奥が苦しくて、何度もヒカルの夢を見た。
彼の洗濯したてシーツのような肌触りが恋しい…お日様の匂いのする柔らかい髪に顔を
埋めて眠りたい……切実に思った。


(167)
 「いらっしゃいませ。」
伊角が店にはいると、メニューを脇に抱えた店員がすぐにやってきた。
「あ、待ち合わせなんです。」
そう言って、店の中を見渡した。目当ての人物はすぐに見つかった。
 耳のすぐ下で切りそろえられた艶やかな黒髪。端正な横顔。そして、何より印象的な切れ長の瞳。
 伊角は真っ直ぐそこへ向かった。考え事をしていたのか、アキラは、伊角が声をかけるまで
気が付かなかった。
「塔矢君…」
アキラは、ハッと目を上げて、それから慌てて頭を下げた。
「すみません…突然…」
「いや…」

 昨日ヒカルを家に送り届けて、すぐに自分も自宅へ戻った。タクシーの中から和谷の
携帯に連絡を入れたが、彼から返事はなかった。確かに和谷を無理に外に連れ出そうとしたのは自分だ。
彼は最近元気がなく、家に閉じこもりがちになっていた。伊角の強引な誘いを受けたもののあまり気乗りしない様子だった。途中で気が変わってしまったのかもしれない。
 伊角は和谷の態度を訝しく思いながらも、本当のところはヒカルの方が気になっていた。
頬に触れた柔らかい髪の感触や、あえかな息づかいがまだ耳に残っている。ヒカルのことを
考えるだけで、胸の奥に甘酸っぱいものがこみ上げた。
『どうしたんだよ!?いくら可愛くても…アイツは男だぞ…?』
見たことのない頼りなげな表情や、細い肩が伊角の庇護欲を駆り立てた。自分の心に突然芽生えた
感情は、伊角を戸惑わせた。いくら頭の中からヒカルの姿を追い出そうとしても、そのたび
鮮やかに蘇る。運転手が到着を告げたことにさえ暫く気が付かなかった。それほど、頭の中は
ヒカルのことでいっぱいだった。自分が信じられない。溜息を吐きつつ、家路を歩いた。
 「ただいま」
「あ、お待ちください。今、戻りましたので…」
伊角が部屋にはいると同時に、電話を受けていた母親がこちらの方を見ながら受話器の向こうに
答えていた。


(168)
 アキラから連絡を貰ったとき、すぐにヒカルの件だと勘が働いた。もし、変わり果てたヒカルを
見ていなければ、間違い電話ではないかと思ったことだろうが………。そして、それは正しかった。
 アキラは、伊角が前の席に座ると、すぐに用件を切り出した。言葉を選びながら、慎重に
事情を話した。
「………ボクには何があったのかわかりません…最後にあったときはいつもの進藤でした…」
「電話で話したときだって、変わった様子はなにも……むしろ、携帯を買ったってはしゃいでたくらいで……」
アキラはそこでいったん言葉を切って、テーブルの上に置かれた自分の手に視線を落とした。
何かを堪えるように唇を噛みしめている。
「でも、どうしてオレに?進藤のことは君の方がよく知っているんじゃあ…」
あの“塔矢アキラ”を相手に物怖じしないヒカル。ズケズケと遠慮のない物言いに、呆れるのを
通り越していっそ感嘆するほどだ。そして、アキラは、それが当然であるかのように許している。
「進藤は、ボクに会うのを嫌がっているんです………」
アキラは忙しなく指を動かした。自分の置かれた状況に戸惑い、苛立っている。
 気持ちはわかる。あんなヒカルを見たら誰だって、じっとしてはいられない。助けて支えて、
ヒカルが怯えているすべての物をその瞳に映らないように覆い隠してやりたい……とは、
いうものの自分もその理由を知っているわけではない。
「でも…オレも事情は知らな……」
そこまで言いかけたとき、何かが頭の隅に引っかかった。何か重要な事を忘れている気がする―――――
 そう言えば、あのときヒカルは何に怯えていたのだろう?確かにその前から少し様子が
おかしかったが、それでもあのときまでは、ヒカルはまだしっかりと自分の意識を保っていた。
それが突然、ヒカルの身体から力が抜けて、すべてのものから自分を隠そうとするかのように
小さく蹲って震えていた。ヒカルは何を見たんだろう…………伊角は慎重に記憶を辿っていった。


(169)
 どうしても思い出さなければいけない。ヒカルを見つけたとき…ヒカルを捕まえたとき…それから………
―――――まさか……和谷?
そんなはずがない。伊角は小さく頭を振った。どうしてヒカルが和谷を怖がる必要があるのだ。
和谷は一見粗雑だが、親切だし、面倒見も良い。ヒカルのことも弟みたいに可愛がっていたし、
ヒカルだって慕っていた。
 だが、一旦抱いた疑念はそう簡単に忘れられない。
「伊角さん?」
訝しげなアキラの声に、ハッと我に返った。
「どうかしたんですか?」
「塔矢君……悪いんだけど…もう少し…もう少しだけ…待ってくれないか…オレが調べるから……」
「―――!?何かご存じなんですか?教えてください!」
アキラは弾かれるように立ち上がった。椅子が、ガタンと大きな音をたてた。周りの視線が
一斉に自分たちに集中したが、それを無視して伊角に食ってかかった。
「お願いです!今、すぐ知りたいんです!」
その真剣な瞳に圧倒されそうになりながらも、伊角はぐっと見つめ返した。
「今は言えない――」
動揺を悟られないように声を抑える。
「すまない…」
伊角はアキラに向かって小さく頭を下げた。そして、伝票を片手に席を立つと、彼を
その場に残して、さっさと店を出て行った。
店の外では八月の強い陽射しが、伊角を射した。それを遮るように手を翳し、僅かに眉をしかめた。
「さて…と………」
行き先は決まっている。そのまま真っ直ぐ和谷のところへ向かった。


(170)
 アキラは大きく息をつき、倒れ込むように椅子に腰をかけた。
「伊角さんもダメか……」
彼も何かを知っているらしい。それなのに、アキラにそれを教えてはくれなかった。
『いや……彼は少し待てと言っただけだ……』
何もわからず右往左往するだけだった昨日までよりも、ずっと進展したはずだ。
 アキラは、緒方の所で会ったヒカルの姿を思い返した。手合いの日より多少はマシだったとはいえ、
あまりに儚げなヒカルの姿はアキラの不安を誘う。
『早く、いつものキミに戻って欲しい……』
ヒカルの笑顔を取り戻したい。まだ、変声期前のような少し高めの澄んだ声。舌っ足らずな
話し方。あの闊達な笑い声が聞きたい。

 すっかり冷めてしまったコーヒーを一口飲んだ。少し渋いその味に顔を顰めた。
『塔矢、オレのはミルクたっぷりにして!』
どこからかヒカルの声が聞こえてきそうだ。
 ふと、夏の初めに二人で交わした会話を思い出した。
「オレ、苦いの嫌いなんだよ…」
ヒカルはそう言って、景気よくミルクを注いだ。
「あーあ…すっかり白くなっちゃったな…」
自分の腕を眺めながら、ヒカルが溜息を吐いた。
「前はこれくらい焼けてたのにな?」
自分のカップの中身をアキラに見せた。
「進藤、地色は白いんだね…」
それは知っていた。シャツに隠された部分がどれほど白いかアキラはよく知っている。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 ヒカルは頷いた。
「前はさー夏休みは毎日泳ぎに行ってたんだよ。それこそ、お前が飲んでるコーヒーみたいな
 色になるまでさ…」
「それが、今は朝から晩まで碁のことばっか…」
「イヤなのかい?」
深い意味はなかった。話の流れから聞いてみただけだったのだが、アキラがそれを口にした瞬間、
ものすごい勢いでヒカルは否定した。
「まっさか!イヤなわけねぇじゃん!」
「嬉しいんだ…毎日、それだけを考えていられるのが…」
夢でも見るようにうっとりと呟くその横顔に暫し見とれた。そんなアキラの視線に気が付いたのか
ヒカルはアキラに額がつくほど顔を近づけ、「でもな」と一言、悪戯っぽく笑った。
「でも…ときどき…ほんのちょっと…ホントにちょこっとだけ、遊びてぇって思うけどな?」
唇に人差し指をあてて、「塔矢先生や森下先生にはナイショな」とウインクした。その仕草が
あまりに可愛かったので、ヒカルに抱きついてキスをした。

「進藤が元気になったら…そうしたら…」
海に行こう。夏が終わる前に一緒に出かけよう。いつか…じゃなくてすぐにでも…。



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