平安幻想異聞録-異聞- 167 - 168


(167)
気がせいて、昼も夜もなくその作業を続けたいのが本音だったが、そうもいかない。
そうして参内するからには、恐れおおくも帝の囲碁指南という大任を任されて
いるのだし、せめてその仕事の最中は、自分のやるべき事に集中しようと思い、
実際に碁石を持てば、常の習いでスッと心は盤面の宇宙へと収束して落ち着くのだが、
例えばこうして帝が長考に入ったとき、佐為の指導の言葉を吟味しはじめ部屋が
静まりかえってしまった時、心は別の所へ飛んでしまう。
思い出されるのは、あの菊の宴。
皆の前で舞いを舞って見せたヒカルの、その血の気の薄い頬に落ちる青白い睫毛の影。
遠目にも彼が疲れているのがわかった。
本当に座間邸で不自由な思いをしていることは無いのだろうか?
あの最初の日の左手首の傷以外、外傷らしいものは見当たらなかったが……。
思惟の表情でうつむき、手の中の白石を玩んでいた佐為に、帝が声をかけた。
「さても。わが囲碁の師は、今は碁よりも大事なものがあると見えるな」
「いえ、決してそのような……」
「よい、もう慣れたわ」
佐為は自分の心の弱さを呪った。だが帝は怒った様子はない。
「鹿も恋に鳴くこの季節よ。女の噂のひとつも聞かぬそちが、そのように碁が乱れる
 ほど誰かを物狂おしく思う様は、なかなか見物じゃ」
「申し訳ございません。次はこのような事は決して」
「叱っているのではない。むしろ、そちにもそのような人間臭いことがあるかと
 感心しておる」
佐為は体を小さくするばかりだ。
「思いが通じるとよいのう」
帝が席を立った。
佐為は深々と頭を垂れた。


(168)
しばらく向かい合う者のない碁盤の前に座って、心を落ち着ける。
元々碁の腕を磨く事ばかりが好きで、人と付き合うことはわずらわしいとしか
思ったことのない自分に、このような大任は荷が重い。腹に一物もつ貴族達の
中で生活するのに、今のように一々考えてる事が表にでるようでは、とてもでは
ないがこれからやっていく自信など無い。やはり藤原行洋にも願い出て、お暇を
いただこうかなどと考えながら立ち上がり、退出する。
溜め息をつきつつ向かった清涼殿の出入り口で、佐為は出来れば今は顔も
見たくない人物と、ばったりと鉢合わせしてしまった。
座間長房と菅原顕忠であった。
思わず、その後ろに自分の見知った金茶の髪の色を探したが、彼らの後ろにヒカルは
いない。
当然だ。ここは帝のおわす場所。貴族でも一部のものの出入りしか許されない場。
ヒカルは、もし今日も参内していたとしても、宜陽殿あたりで控えているのだろう。
「道を開けられよ、佐為殿」
菅原が口を開いた。
清涼殿の出入り口は、三人が肩を擦りあわせずに出られるほど広くはない。
しかし、佐為は動かず、じっとその二人を睨みつけた。
菅原が馬鹿にしたように鼻を鳴らし、肩で佐為を突き飛ばすようにして通って行く。
座間も菅原が作った通り道を、佐為の顔を横に見ながらどこか勝ち誇ったような
笑みを浮かべ、歩き過ぎようとした。
佐為と座間の肩が触れ合うほどに近くすれ違おうとした、その時、佐為が言葉を
紡いだ。
「座間殿の新しい警護役の者…先日から顔色が優れないように見受けられるのですが、
 体の加減はどうなのでしょうか?」
座間が興味深げに振り向いた。だが、答えたのは菅原。
「座間様の警護役の身の心配など、そなたがすることではないであろう。
 差し出がましい!」
「差し出がましくて結構! 座間様は殿上に広く名の知れたるお方。そう無体な
 真似をするとは思いませぬが、あの者の顔色を見るにつけ、心配はつのる
 ばかりですゆえ」



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