日記 169 - 171
(169)
どうしても思い出さなければいけない。ヒカルを見つけたとき…ヒカルを捕まえたとき…それから………
―――――まさか……和谷?
そんなはずがない。伊角は小さく頭を振った。どうしてヒカルが和谷を怖がる必要があるのだ。
和谷は一見粗雑だが、親切だし、面倒見も良い。ヒカルのことも弟みたいに可愛がっていたし、
ヒカルだって慕っていた。
だが、一旦抱いた疑念はそう簡単に忘れられない。
「伊角さん?」
訝しげなアキラの声に、ハッと我に返った。
「どうかしたんですか?」
「塔矢君……悪いんだけど…もう少し…もう少しだけ…待ってくれないか…オレが調べるから……」
「―――!?何かご存じなんですか?教えてください!」
アキラは弾かれるように立ち上がった。椅子が、ガタンと大きな音をたてた。周りの視線が
一斉に自分たちに集中したが、それを無視して伊角に食ってかかった。
「お願いです!今、すぐ知りたいんです!」
その真剣な瞳に圧倒されそうになりながらも、伊角はぐっと見つめ返した。
「今は言えない――」
動揺を悟られないように声を抑える。
「すまない…」
伊角はアキラに向かって小さく頭を下げた。そして、伝票を片手に席を立つと、彼を
その場に残して、さっさと店を出て行った。
店の外では八月の強い陽射しが、伊角を射した。それを遮るように手を翳し、僅かに眉をしかめた。
「さて…と………」
行き先は決まっている。そのまま真っ直ぐ和谷のところへ向かった。
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アキラは大きく息をつき、倒れ込むように椅子に腰をかけた。
「伊角さんもダメか……」
彼も何かを知っているらしい。それなのに、アキラにそれを教えてはくれなかった。
『いや……彼は少し待てと言っただけだ……』
何もわからず右往左往するだけだった昨日までよりも、ずっと進展したはずだ。
アキラは、緒方の所で会ったヒカルの姿を思い返した。手合いの日より多少はマシだったとはいえ、
あまりに儚げなヒカルの姿はアキラの不安を誘う。
『早く、いつものキミに戻って欲しい……』
ヒカルの笑顔を取り戻したい。まだ、変声期前のような少し高めの澄んだ声。舌っ足らずな
話し方。あの闊達な笑い声が聞きたい。
すっかり冷めてしまったコーヒーを一口飲んだ。少し渋いその味に顔を顰めた。
『塔矢、オレのはミルクたっぷりにして!』
どこからかヒカルの声が聞こえてきそうだ。
ふと、夏の初めに二人で交わした会話を思い出した。
「オレ、苦いの嫌いなんだよ…」
ヒカルはそう言って、景気よくミルクを注いだ。
「あーあ…すっかり白くなっちゃったな…」
自分の腕を眺めながら、ヒカルが溜息を吐いた。
「前はこれくらい焼けてたのにな?」
自分のカップの中身をアキラに見せた。
「進藤、地色は白いんだね…」
それは知っていた。シャツに隠された部分がどれほど白いかアキラはよく知っている。
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ヒカルは頷いた。
「前はさー夏休みは毎日泳ぎに行ってたんだよ。それこそ、お前が飲んでるコーヒーみたいな
色になるまでさ…」
「それが、今は朝から晩まで碁のことばっか…」
「イヤなのかい?」
深い意味はなかった。話の流れから聞いてみただけだったのだが、アキラがそれを口にした瞬間、
ものすごい勢いでヒカルは否定した。
「まっさか!イヤなわけねぇじゃん!」
「嬉しいんだ…毎日、それだけを考えていられるのが…」
夢でも見るようにうっとりと呟くその横顔に暫し見とれた。そんなアキラの視線に気が付いたのか
ヒカルはアキラに額がつくほど顔を近づけ、「でもな」と一言、悪戯っぽく笑った。
「でも…ときどき…ほんのちょっと…ホントにちょこっとだけ、遊びてぇって思うけどな?」
唇に人差し指をあてて、「塔矢先生や森下先生にはナイショな」とウインクした。その仕草が
あまりに可愛かったので、ヒカルに抱きついてキスをした。
「進藤が元気になったら…そうしたら…」
海に行こう。夏が終わる前に一緒に出かけよう。いつか…じゃなくてすぐにでも…。
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「和谷、いるんだろう?」
扉の向こうに何度も呼びかけたが、応えはなかった。伊角は軽く溜息を吐いた。
「いいさ…お前がその気になるまで、ここで待つよ…」
和谷が出てくるまで、何時間でも待つ。彼はここにいる。部屋は人の気配がなく、静まりかえっていたが、
和谷がその中にいるという確信があった。
伊角には確認しなければならないことがある。だから、彼に会うまでは絶対にここを動かない。
何より今帰ったら、絶対に後悔する。そんな予感があった。
一時間ほど待ったであろうか、静かにドアが開かれた。
「……………………伊角さん……」
「―――和谷…」
和谷は黙って伊角を部屋に招き入れた。
――――――――いつ来ても殺風景な部屋だな……
和谷の部屋には物がない。あるのは小さな卓袱台と布団、それから一番大切な碁盤と碁石だけだ。
小さな部屋の中に少ないアイテム。だが、今は新しい仲間が加わっていた。
伊角は流し台の方へ目をやった。そこにはリンドウの鉢植えが置いてある。落ち着いた
青紫の小さな花。その静かな姿に知らず笑みが零れた。
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