平安幻想異聞録-異聞- 169 - 172
(169)
「無礼な。その言い方、まるで座間様があの警護役を粗略に扱っているような
言い方ではないか。これだから下賎の中で育った者は、口の聞き方をしらんと言う
のじゃ。このような者を殿上に上げて、囲碁指南役などという大役を任せる
藤原行洋殿の気が知れぬ」
行洋の名を出されて、佐為のまなじりが鋭く細められる。
「おおかた、そなたの母と同じく色仕掛けで、藤原行洋殿をたらしこんだか。
親子そろって目端の効くことよ。佐為殿は今もこの美形振り、十年も前なら、
どんな公達も涎をたらす美童であったろう。その美童を閨で独り占めとは
行洋殿も隅におけぬわ」
度を過ぎる菅原の侮辱の言葉。佐為はそれを努めて平静を装って受け流そうとした。
その類いの陰口は実は今に始まった事ではない。
「顕忠殿。御自分がそのような下衆な立ち回りしか出来ないからといって、
他人までそのように下衆な行動しか出来ぬものとは考えぬことですな」
「なんと、この顕忠を下衆と申すか! うぬこそ検非違使を寝所に引き込み、
閨の術をしこんで楽しむようなことをしておったくせに! さしずめその閨房術も、
貴殿が行洋殿から閨で直接伝授されたものではないのかのう? 貴殿が隠しても
あの検非違使の体がそう言うておるわ! 下衆はどちらじゃ」
佐為がその菅原の言葉の意味を問いただす隙もなく、今度は座間が口を開いた。
「顕忠、あまり乱暴な口をきいてはならん。こちらのお方は恐れ多くも帝の
囲碁指南役じゃ。――安心されよ、佐為殿。あの検非違使は、わが屋敷にて
立派な部屋を持たせ、専用の侍女もあてがって世話をさせておる。せっかく
捕らえた珍しい野趣の鳥じゃ。飼い殺しにするのも惜しいのでな。心配せぬでも
毎夜、可愛いごうておる」
座間は面白そうに佐為を見る。
「しかし、佐為殿、野の鳥も馴らせば飼い主に応えるものよのう。――夜な夜な、
愛でれば高く低くよい声で啼きよるわ」
自分の顔から血の気が引くのを佐為は感じた。
わかった。わかってしまった。
ヒカルが座間の屋敷で何をされているのか。座間にどういう扱いをされているのか。
頭で理解するより先に、心が反応した。
次の瞬間、佐為の身を包んだのは、総身の毛が逆立つような激しい怒りだったのだ。
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「かの竹林で弓月を見上げながら賞味した折りには、まだ身も硬く、
枝からもぐには硬い果実に思われたが、先日もう一度口にしてみれば、
これはいかなるわけか。何時の間にやら良い具合に甘く熟しておる。あの身を
柔らかく解きほぐしたは、どこのどなたかとも思うたが…」
卑俗な笑みを浮かべて、座間が佐為を真正面から見た。
「考えるまでもなく、ひとりしかおらぬのう。今、儂の目の前におられるこの
お方が、涼しい顔はしていても、据膳を前に手を出さずにおれるほど俗世離れは
していないようで、儂も安心したわい」
佐為は目を閉じた。
想像してしかるべきだった。
座間が、あの下弦の月の夜の下、帰路のヒカルを捕らえて何をしたのか思えば、
こうなる事は考えておくべきだったのだ。……いや、心の奥底では分かっていた。
わかっていて、その不安を心の隅に追いやり、目をふさいでいたのかもしれない。
皆が菊酒に酔う中『綾切』を舞ったヒカルの姿がまぶたの裏に蘇る。拍子に合わせて
運ぶその足を少し引きずるようにして、足元を確かめながら歩を進めていた。元気な
時のヒカルなら、あの様な歩き方は絶対にしない。立っていることさえ危ういほど、
その疲労は深いのだと、その仕草に思い知らされた。
「あのように、後ろを責められて、こちらのやりよう次第でいかようにも啼くように、
佐為殿があの鳥を仕込んで下されたおかげで、楽しい夜を過ごさせてもろうておる」
追い討ちをかけるように座間の言葉が佐為を打つ。
だが、佐為の耳をよぎるのは三日前、最後に聞いたヒカルの声。
――『うん…平気。大丈夫だよ』
ヒカルはいったい、どんな気持ちであの言葉を言ったのだろう?
……切られるように胸が痛んだ。
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「あのまだ何も知らぬ幼い肌に男同士のまぐわい事を教え込むのは、さぞや楽しいこと
であったろうのう。儂もぜひあやかりたいものよ」
「佐為殿もそのような御趣味ともっと早くに聞き及んでおれば、この顕忠、見目のよい
寵童の一人やふたり、世話をさせていただいものを。いや、もしや、佐為殿は抱くほう
より抱かれる方がお好みなのかもしれませんな、座間様」
目の前の二人を睥睨するように、佐為はゆっくりとまぶたを上げた。
「ヒカルに……ヒカルに何をしているとおっしゃられた」
その声は、谷の底から聞こえる風鳴りの様に低い。
その瞳の奥に燃え立つ、凍るような青い怒りの炎に気付いて、二人は一瞬
たじろいだが、すぐにそれを恥じたように、口を開いた。
「お怒りになられたか? いや、これは失敬。なるほど貴殿にとっては、自らが
喰らうつもりで育てた果樹の実を、横から出た儂たちの手に攫われたようなもの。
これはとんだ不作法であったのう」
「どうやら、果樹の番人は御立腹の御様子。男女の仲の悋気より、男同士の仲の
悋気の方が激しいと聞き及びますが、まことのようでございますなぁ」
薄ら笑いを浮かべながら菅原が座間に迎合した。
二人が、佐為を言葉で嬲って楽しんでいるのはあきらかだった。それが佐為の内の
怒りの炎に、油を注いでいるとは気付いているのかいないのか。
「近衛ヒカルは、警護役として座間殿のおそばに参ったはず。しかし、今のお言葉から
察っせらるるにどうやらそれ以外の仕事にも従事させられている様子…」
「あの検非違使をどう扱おうと、儂の勝手であろう。検非違使庁からは儂の
特別警護の手当ても十分に近衛の家に届けられてお……」
座間はその言葉を最後まで紡ぐことはできなかった。
佐為の手が、座間が持っていた扇を奪い取り、それを床に叩きつけたからだ。
高い音を立てて、その親骨が折れた。
「近衛ヒカルの身を、あなた方はそのように奴婢でも扱うように、金銭で取引き
されたのかっ!?」
菅原が気色ばむ。
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「何をされるか!? 不敬ですぞ!」
「かの妖怪退治の折り、我らに先手を取られた事がそんなに口惜しくていらっ
しゃるか! 藤原一門が内裏にて権勢をふるうのが、そんなに不愉快で
あられるか! ならば、その恨みは私や行洋様にぶつければよい事! ただ
我らがそばにいるというだけの、一介の検非違使でしかないかの者に、その
憎しみをぶつけるなど、筋ちがいも甚だしい。それとも、座間殿は身分が下の
者へでなければ、怒りをぶつけるすこともできぬ卑小なお方か!」
「言葉が過ぎますぞ、佐為殿!」
座間の手が、進み出ようとした菅原を押しとどめた。
「儂が、内裏での権力争いで近頃振るわぬ様なのを、あのような検非違使一人、
手に入れることで溜飲を下げていると、そうおっしゃられるか、佐為殿は」
口元に浮かぶ嘲笑うような笑みは消えていなかったが、その座間の声色に
ふくまれた凄みに、近くにいた菅原でさえ、ひいた。
「それこそ、勘違いも甚だしい。確かに、行洋殿に先手先手と取らるるは
口惜しいが、儂はその恨み辛みを、小者ひとりにぶつけて満足するほど
堕ちてはおらぬ。儂があの検非違使を、貴公から奪ったのは、純粋に肉の
楽しみの為よ。安心されよ。あの野の鳥も手なずけられて、今では夜毎に
儂の寵愛を欲しい欲しいとなきよるわ」
佐為の唇に、彼にしてはめずらしい、嘲笑うかのような笑みが浮かんだ。
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