平安幻想異聞録-異聞-<外伝> 17 - 18
(17)
日課になった碁会所の掃除の手順は、すでに体が覚えてしまっていて、何も
考えなくとも手が動く。
次の日も、仕事帰りに、佐為の香りを濃く残すそこに立ち寄ったヒカルは、黙々と
ただ、板敷きの床を掃き清める。毎日そうしているせいで、ホコリさえ殆ど落ちて
はいなかったが、体を動かしている間は頭が真っ白になって、何も思い出さずに
いられた。この碁会所の持ち主がもういないことも。自分を暖めてくれた腕が失わ
れたことも。
そのうち、同じように自分の中の佐為の記憶も真っ白になってしまう日がくるの
だろうか? 忘れることが出来るのだろうか、自分に。
拭き掃除に使う水は、ひと足早く冬になってしまったようで切るように冷たく、
ヒカルの指先は真っ赤になった。
碁会所を出た後、ヒカルは昨日、顔を出しそこねた藤崎家に立ち寄った。藤崎の家では、
あかりの家族があたたかく迎えてくれた。ここではヒカルの家と同じように、世俗と
関係なく、和やかに穏やかに時間が流れている。まるで、佐為が入水した事実なんて
どこにもないかたように。佐為なんて最初からいなかったと思うほど。
ヒカルがあかりの家族に案内されて屋敷の奥へ行くと、その突き当たりの部屋の御簾が、
がばりと無造作に上げられて藤崎あかりが顔を出した。
「あ、ヒカル、来てくれたんだーーっ!」
「来てくれたんだーじゃ、ねぇだろ! おまえ、内裏勤めでちったぁ女らしくなった
かと思ったのに、なんだよ、その御簾の上げ方! 女ってのはなー、もうちっと慎まし
やかにだなぁ!」
「いいじゃーん、私の家だし、どうせヒカルだし」
「なんだよ、そのどうせってのは!」
「どうせは、どうせだもーん。御簾を女らしく上げてみた所で、その雅さとか優雅さ
とかヒカルにわかんの?」
「わ、わかるさ」
「へー、じゃ、ヒカルが見本をやってみせてよ、その慎ましやかな御簾の上げ方っ
てやつ」
(18)
「男ができるかーーっっ!」
「やっぱり口先ばっかりじゃない」
「あかり、いい加減になさい!」
ポンポンと交わされるやり取りに存在を忘れられていたあかりの母が、ぴしゃりと
自分の娘をしかった。しかし、その顔が面白そうに微笑んだままなのだから、この
幼なじみ同士のこんな会話は、昔から何度も繰り返された日常の光景であることが
わかる。
「ホントに、ヒカルさんからも言ってやってくださいね。もう少し女らしくしないと、
通ってくる殿方にも呆れられてしまいますよ」
あかりが肩をすくめて小さく舌を出した。
そんな彼女の様子を見咎めて、また小さく叱ると、あかりの母は一礼して戻っていった。
残ったヒカルは、上げられた御簾のうちに入り腰を下ろす。
あかりが、会話を両親に聞かれないようにするためか御簾を降ろした。
「なんだ、やっぱり、あかりんとこに通うような物好きな男がいたんだ」
「追い返したけどね」
「……なんで?」
「秘密」
あかりは怒ったようにふいと横を向いてしまった。これはこの話題に先はないと、
幼なじみの勘でさとったヒカルは別の話を振る。
「おまえ、今回なんで帰ってきたの? 月一のやつとは違うだろ?」
「犬が死んだの」
「犬?」
「うん、みんなで可愛がって餌をやってた野良犬がいたんだけどね。死んじゃったの」
あかりが寂しそうな目線で床板の木目を追っていた。
|