平安幻想異聞録-異聞- 170
(170)
「かの竹林で弓月を見上げながら賞味した折りには、まだ身も硬く、
枝からもぐには硬い果実に思われたが、先日もう一度口にしてみれば、
これはいかなるわけか。何時の間にやら良い具合に甘く熟しておる。あの身を
柔らかく解きほぐしたは、どこのどなたかとも思うたが…」
卑俗な笑みを浮かべて、座間が佐為を真正面から見た。
「考えるまでもなく、ひとりしかおらぬのう。今、儂の目の前におられるこの
お方が、涼しい顔はしていても、据膳を前に手を出さずにおれるほど俗世離れは
していないようで、儂も安心したわい」
佐為は目を閉じた。
想像してしかるべきだった。
座間が、あの下弦の月の夜の下、帰路のヒカルを捕らえて何をしたのか思えば、
こうなる事は考えておくべきだったのだ。……いや、心の奥底では分かっていた。
わかっていて、その不安を心の隅に追いやり、目をふさいでいたのかもしれない。
皆が菊酒に酔う中『綾切』を舞ったヒカルの姿がまぶたの裏に蘇る。拍子に合わせて
運ぶその足を少し引きずるようにして、足元を確かめながら歩を進めていた。元気な
時のヒカルなら、あの様な歩き方は絶対にしない。立っていることさえ危ういほど、
その疲労は深いのだと、その仕草に思い知らされた。
「あのように、後ろを責められて、こちらのやりよう次第でいかようにも啼くように、
佐為殿があの鳥を仕込んで下されたおかげで、楽しい夜を過ごさせてもろうておる」
追い討ちをかけるように座間の言葉が佐為を打つ。
だが、佐為の耳をよぎるのは三日前、最後に聞いたヒカルの声。
――『うん…平気。大丈夫だよ』
ヒカルはいったい、どんな気持ちであの言葉を言ったのだろう?
……切られるように胸が痛んだ。
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