平安幻想異聞録-異聞- 170 - 174


(170)
「かの竹林で弓月を見上げながら賞味した折りには、まだ身も硬く、
 枝からもぐには硬い果実に思われたが、先日もう一度口にしてみれば、
 これはいかなるわけか。何時の間にやら良い具合に甘く熟しておる。あの身を
 柔らかく解きほぐしたは、どこのどなたかとも思うたが…」
卑俗な笑みを浮かべて、座間が佐為を真正面から見た。
「考えるまでもなく、ひとりしかおらぬのう。今、儂の目の前におられるこの
 お方が、涼しい顔はしていても、据膳を前に手を出さずにおれるほど俗世離れは
 していないようで、儂も安心したわい」
佐為は目を閉じた。
想像してしかるべきだった。
座間が、あの下弦の月の夜の下、帰路のヒカルを捕らえて何をしたのか思えば、
こうなる事は考えておくべきだったのだ。……いや、心の奥底では分かっていた。
わかっていて、その不安を心の隅に追いやり、目をふさいでいたのかもしれない。
皆が菊酒に酔う中『綾切』を舞ったヒカルの姿がまぶたの裏に蘇る。拍子に合わせて
運ぶその足を少し引きずるようにして、足元を確かめながら歩を進めていた。元気な
時のヒカルなら、あの様な歩き方は絶対にしない。立っていることさえ危ういほど、
その疲労は深いのだと、その仕草に思い知らされた。
「あのように、後ろを責められて、こちらのやりよう次第でいかようにも啼くように、
 佐為殿があの鳥を仕込んで下されたおかげで、楽しい夜を過ごさせてもろうておる」
追い討ちをかけるように座間の言葉が佐為を打つ。
だが、佐為の耳をよぎるのは三日前、最後に聞いたヒカルの声。
――『うん…平気。大丈夫だよ』
ヒカルはいったい、どんな気持ちであの言葉を言ったのだろう?
……切られるように胸が痛んだ。


(171)
「あのまだ何も知らぬ幼い肌に男同士のまぐわい事を教え込むのは、さぞや楽しいこと
 であったろうのう。儂もぜひあやかりたいものよ」
「佐為殿もそのような御趣味ともっと早くに聞き及んでおれば、この顕忠、見目のよい
 寵童の一人やふたり、世話をさせていただいものを。いや、もしや、佐為殿は抱くほう
 より抱かれる方がお好みなのかもしれませんな、座間様」
目の前の二人を睥睨するように、佐為はゆっくりとまぶたを上げた。
「ヒカルに……ヒカルに何をしているとおっしゃられた」
その声は、谷の底から聞こえる風鳴りの様に低い。
その瞳の奥に燃え立つ、凍るような青い怒りの炎に気付いて、二人は一瞬
たじろいだが、すぐにそれを恥じたように、口を開いた。
「お怒りになられたか? いや、これは失敬。なるほど貴殿にとっては、自らが
 喰らうつもりで育てた果樹の実を、横から出た儂たちの手に攫われたようなもの。
 これはとんだ不作法であったのう」
「どうやら、果樹の番人は御立腹の御様子。男女の仲の悋気より、男同士の仲の
悋気の方が激しいと聞き及びますが、まことのようでございますなぁ」
薄ら笑いを浮かべながら菅原が座間に迎合した。
二人が、佐為を言葉で嬲って楽しんでいるのはあきらかだった。それが佐為の内の
怒りの炎に、油を注いでいるとは気付いているのかいないのか。
「近衛ヒカルは、警護役として座間殿のおそばに参ったはず。しかし、今のお言葉から
 察っせらるるにどうやらそれ以外の仕事にも従事させられている様子…」
「あの検非違使をどう扱おうと、儂の勝手であろう。検非違使庁からは儂の
 特別警護の手当ても十分に近衛の家に届けられてお……」
座間はその言葉を最後まで紡ぐことはできなかった。
佐為の手が、座間が持っていた扇を奪い取り、それを床に叩きつけたからだ。
高い音を立てて、その親骨が折れた。
「近衛ヒカルの身を、あなた方はそのように奴婢でも扱うように、金銭で取引き
 されたのかっ!?」
菅原が気色ばむ。


(172)
「何をされるか!? 不敬ですぞ!」
「かの妖怪退治の折り、我らに先手を取られた事がそんなに口惜しくていらっ
 しゃるか! 藤原一門が内裏にて権勢をふるうのが、そんなに不愉快で
 あられるか! ならば、その恨みは私や行洋様にぶつければよい事! ただ
 我らがそばにいるというだけの、一介の検非違使でしかないかの者に、その
 憎しみをぶつけるなど、筋ちがいも甚だしい。それとも、座間殿は身分が下の
 者へでなければ、怒りをぶつけるすこともできぬ卑小なお方か!」
「言葉が過ぎますぞ、佐為殿!」
座間の手が、進み出ようとした菅原を押しとどめた。
「儂が、内裏での権力争いで近頃振るわぬ様なのを、あのような検非違使一人、
 手に入れることで溜飲を下げていると、そうおっしゃられるか、佐為殿は」
口元に浮かぶ嘲笑うような笑みは消えていなかったが、その座間の声色に
ふくまれた凄みに、近くにいた菅原でさえ、ひいた。
「それこそ、勘違いも甚だしい。確かに、行洋殿に先手先手と取らるるは
 口惜しいが、儂はその恨み辛みを、小者ひとりにぶつけて満足するほど
 堕ちてはおらぬ。儂があの検非違使を、貴公から奪ったのは、純粋に肉の
 楽しみの為よ。安心されよ。あの野の鳥も手なずけられて、今では夜毎に
 儂の寵愛を欲しい欲しいとなきよるわ」
佐為の唇に、彼にしてはめずらしい、嘲笑うかのような笑みが浮かんだ。


(173)
「そのような、言葉。私が信じるとでも」
「あれは、儂のものじゃ」
「近衛ヒカルの身は近衛ヒカル自身のもの以外にはなりえません」
「ふん。たかだか市井の碁打ちでしかない者が、藤原の名を冠しているという
 だけで、帝の御前に上がり、あまつさえ、この儂にそのように偉そうな
 口をきくとはな。まあ、よい。そんなにもあの検非違使の身を物憂いていると
 いうのなら、あの者を手放してもかまわん。が、なにぶん、毎夜の褥が寂しく
 なるのでのう。そうじゃな、かわりに、そなたが閨に侍るというのなら考えて
 やってもよいわい。そなたほどの美貌の者が相手なら、あの検非違使に負けず
 劣らず、楽しい夜が過ごせそうじゃ」
挑発する座間の物言いに、佐為は一歩も引くことなく答えて見せた。
「よいでしょう。この身のひとつ、自由にして気が済むというのなら、今夜にでも
 貴殿の元にまいりましょう。だが、そのかわり、ヒカルの身の上はすぐにでも
 近衛の家にお帰し下さると、お約束くれましょうな」
言葉の内容とは裏腹に、それを真に受けて閨に引き込もうものなら、そのまま
のど笛を噛み千切られるのではないかという佐為の眼光の凄烈さに、さしも
の座間も言葉を失った――その時だった。
「帝のおわすこの清涼殿の入り口で、いったい何の騒ぎであるか?」
現れたのは、今、内裏で帝についで絶大な発言力を誇ると言われる人。藤原行洋であった。


(174)
行洋はその場にいる三人の間に流れる緊迫した空気を見て取ると、
まずは佐為に声を掛けた。
「争い合う声が聞こえたように思ったが、何事か?」
佐為は、座間と菅原をじっと睨みつけたまま動かない。
「座間殿、菅原殿、この者の身はこの内裏において私が後見人をかって出ている。
 この者が何か失礼なことを申したか? ならば、私がかわりに謝罪いたそう」
「そのようなことは無用。私は佐為殿に直接お謝りいただきたいですな」
「佐為。座間殿はこう言っておられるが…」
「…………」
自分の言葉にも和らがない佐為の態度に、行洋の方があきらめた。
「いったい、何があったのかは存じぬが、この者がこのように、声を荒げて怒る
 など、めったにないこと。口論の理由を御説明願えますかな、座間殿、菅原殿」
「この者が、差し出がましくも、座間様の新しい用人の扱いにけちをつけたのです、
 藤原殿!」
菅原が、手にした扇で、佐為を顔を指し示した。
「帝の囲碁指南役を任されたからと言って、座間様の私事にまで口を出すなど、
 この者の思い上がりにも困ったものですな! 藤原殿、貴殿の責任でも
 ありますぞ、これは!」
「ほう…、用人とな。それはもしかして、近頃噂になっている、あの近衛という
 警護役の事ですかな」
僅かに眉をあげて、佐為が行洋の方を見た。
「重陽の節会であの者が披露した舞は、つたないながらなかなか楽しめるもので
 あった。しかし、座間殿、私はあの者の着任に関して、近頃、妙な話を
 聞きましてな」
「噂とな?」



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