日記 171 - 175
(171)
「和谷、いるんだろう?」
扉の向こうに何度も呼びかけたが、応えはなかった。伊角は軽く溜息を吐いた。
「いいさ…お前がその気になるまで、ここで待つよ…」
和谷が出てくるまで、何時間でも待つ。彼はここにいる。部屋は人の気配がなく、静まりかえっていたが、
和谷がその中にいるという確信があった。
伊角には確認しなければならないことがある。だから、彼に会うまでは絶対にここを動かない。
何より今帰ったら、絶対に後悔する。そんな予感があった。
一時間ほど待ったであろうか、静かにドアが開かれた。
「……………………伊角さん……」
「―――和谷…」
和谷は黙って伊角を部屋に招き入れた。
――――――――いつ来ても殺風景な部屋だな……
和谷の部屋には物がない。あるのは小さな卓袱台と布団、それから一番大切な碁盤と碁石だけだ。
小さな部屋の中に少ないアイテム。だが、今は新しい仲間が加わっていた。
伊角は流し台の方へ目をやった。そこにはリンドウの鉢植えが置いてある。落ち着いた
青紫の小さな花。その静かな姿に知らず笑みが零れた。
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上とつなげてください。
―――――――――――――――――
和谷は無言のまま、そんな伊角を見つめていた。伊角は柔らかい表情をキュッと引き締め、
和谷に向き直る。
「…昨日はどうしたんだ?」
和谷は答えない。暗い顔で俯いている。本当は、まだ、少し迷っていた。訊いて良い物かどうか、
自分が首をつっこんで良いことなのか伊角には判別できなかったからだ。だけど、もう覚悟を決めよう。
和谷のことも、ヒカルのことも心配なのだ。
「和谷…進藤と何かあったのか?」
伊角はいきなり核心に触れた。遠回りに聞いても仕方がない。この心の中のわだかまりを
早く解決したかった。
ヒカルの名前を出した途端、和谷の身体が大きく揺れた。
「進藤、泣いて大変だったんだぞ…」
伊角は自分でも気が付かないうちに早口になっていた。和谷がヒカルに乱暴なまねをするわけが
ない。自分の考えすぎだ。だが、そう思う反面、それを納得していない自分がいた。
そんな考えを打ち消したくて、伊角はひたすら話し続けた。
「違うよな?お前のせいじゃないよな?」
「進藤を殴ったりなんかしてないよな?」
和谷は黙って俯いたままだ。イライラする。どうして、『違う』とはっきり言ってくれないのだ。
「何とか言ってくれよ………」
自分でも信じられないくらい情けない声だった。
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「……………………った……」
和谷が聞き取れないほど低い声で呟いた。
「え?」
「…………オレが………った!」
聞き返した伊角に和谷が叫ぶ。
「オレが…ヤッた!ヤッたンだ………!」
「オレが進藤をヤッんだ…………泣いていたのに…何度もやめてくれって頼んでいたのに………それを………」
顔を歪ませて、和谷は伊角に叩き付けるように何度も叫んだ。それも、最後は涙で語尾が掠れ
そのまま和谷は顔を覆って泣き出した。
伊角には訳がわからなかった。
「やった―て、オマエ………どういう………」
「……………進藤を殴って………押さえつけて………無理矢理……………」
そこで、一旦言葉が途切れた。和谷は、ハアハアと喉に迫り上がってくる呼吸を整えるため
目を閉じて深く息を吸い込んだ。
「…………犯した…」
言葉が出ない。アイツは今、いったい何を言ったんだ?
――――――和谷が………進藤を…………?
和谷は俯いて苦しげに唇を噛みしめている。
「オ……オマエ…何言ってるんだよ…冗談はヤメロよ……」
笑い混じりに冗談ですませようとした。………だけど、自分にもそれが冗談などではないことを
わかっていた。
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信じられなかった。和谷がヒカルをそういう対象として見ていたことが…………。
確かにヒカルは可愛い。可愛いが………。自分にも思い当たることはある。ヒカルは
明るくて可愛くて、無邪気で甘え上手だった。そこが可愛くて伊角もあれこれ世話を焼いた。
でも、それは弟のような可愛さであって、恋愛感情とは程遠い。
だが、反面、時折、涙が出そうになるほど切なくなるのも事実だ。ヒカルが笑えば、ほんわりと
心が温かくなったし、いつものやんちゃなヒカルに似合わない物憂げな表情をその繊細な
横顔に見つけたときは胸が締め付けられるような気持ちになった。
現に昨日、ヒカルに会って以来、ずっと、彼のことが頭から離れない。タクシーの中で
もたれ掛かってきたヒカルの華奢な肩や、頬に触れる柔らかい髪に胸が高鳴った。伏せられた
睫の長さや青白い頬が伊角の庇護欲をかき立てた。だけど、それは違う。違うはずだ。
そんな風に思うのは、ヒカルがいつも以上に少女めいてか弱く見えたので、それに惑わされて
いるだけだ――――自分にそう言い聞かせた。
「なんでだよ………どうしてそんなことをしたんだよ…………」
「見ただろ?進藤を…………どうして、あんな酷いことが出来たんだ………」
「信じられないよ………信じられない………」
畳みかけるような伊角の言葉を、和谷は目を閉じてじっと聞いていた。
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「自分でもわからない………前はそんな気持ちじゃなかった………」
和谷は伊角と視線を合わせないまま、話し始めた。
確かに以前はそんな気持ち微塵もなかった。いや、もしかしたら、気が付いていなかっただけかも
しれない。何れにしろ、あの時、あの二人――ヒカルとアキラがキスしているところを
見てさえいなければ、彼を欲しいなどとは思わなかっただろう………。
「……………進藤と…………塔矢が………?」
伊角は絶句している。それはそうだろう。自分も最初は信じられなかった。二の句が継げずに
いる伊角を和谷はちらりと盗み見た。
青い顔をして狼狽えているだろうと予想していた伊角の表情は、顔の青さだけはそのままに
意外にも、鋭く強い瞳で和谷を見つめていた。
「………それから…?」
伊角は促した。
和谷は伊角の強い視線に居心地の悪さを感じながら、先を続けた。
「………それ以来、なんだかいつも進藤のことが頭から離れなくて………」
「『好きだ』って言ったら、進藤は悪ふざけはやめろって………」
自分は真剣だったのに………ヒカルは冗談の一言で片づけた。軽蔑するように自分を睨み付ける
あの瞳。アキラにはとろけるような笑顔を見せながら、和谷にはその欠片さえも与えては
くれなかった。
「気が付いたら、オレは進藤を………」
乱暴に押し倒して、殴っていた………そう伊角に言った。
ウソつきめ!――――和谷は自分自身を罵った。気が付いたらなんかじゃない!
自分は最初からヒカルを抱くつもりだった。和谷の言うことを信じて素直に付いてきたヒカル。
部屋に通し玄関に鍵をかけ、逃げ場をなくしてから、ヒカルに告白した。そして――――
黙って和谷の話に耳を傾けていた伊角が口を開いた。
「………お前は本当に進藤のことが好きなんだな?」
「………?伊角さん………?」
「………………塔矢への当て付けで進藤を抱いたんじゃないんだな?」
思いもよらないその言葉に和谷は言葉を失った。
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