平安幻想異聞録-異聞- 173 - 176


(173)
「そのような、言葉。私が信じるとでも」
「あれは、儂のものじゃ」
「近衛ヒカルの身は近衛ヒカル自身のもの以外にはなりえません」
「ふん。たかだか市井の碁打ちでしかない者が、藤原の名を冠しているという
 だけで、帝の御前に上がり、あまつさえ、この儂にそのように偉そうな
 口をきくとはな。まあ、よい。そんなにもあの検非違使の身を物憂いていると
 いうのなら、あの者を手放してもかまわん。が、なにぶん、毎夜の褥が寂しく
 なるのでのう。そうじゃな、かわりに、そなたが閨に侍るというのなら考えて
 やってもよいわい。そなたほどの美貌の者が相手なら、あの検非違使に負けず
 劣らず、楽しい夜が過ごせそうじゃ」
挑発する座間の物言いに、佐為は一歩も引くことなく答えて見せた。
「よいでしょう。この身のひとつ、自由にして気が済むというのなら、今夜にでも
 貴殿の元にまいりましょう。だが、そのかわり、ヒカルの身の上はすぐにでも
 近衛の家にお帰し下さると、お約束くれましょうな」
言葉の内容とは裏腹に、それを真に受けて閨に引き込もうものなら、そのまま
のど笛を噛み千切られるのではないかという佐為の眼光の凄烈さに、さしも
の座間も言葉を失った――その時だった。
「帝のおわすこの清涼殿の入り口で、いったい何の騒ぎであるか?」
現れたのは、今、内裏で帝についで絶大な発言力を誇ると言われる人。藤原行洋であった。


(174)
行洋はその場にいる三人の間に流れる緊迫した空気を見て取ると、
まずは佐為に声を掛けた。
「争い合う声が聞こえたように思ったが、何事か?」
佐為は、座間と菅原をじっと睨みつけたまま動かない。
「座間殿、菅原殿、この者の身はこの内裏において私が後見人をかって出ている。
 この者が何か失礼なことを申したか? ならば、私がかわりに謝罪いたそう」
「そのようなことは無用。私は佐為殿に直接お謝りいただきたいですな」
「佐為。座間殿はこう言っておられるが…」
「…………」
自分の言葉にも和らがない佐為の態度に、行洋の方があきらめた。
「いったい、何があったのかは存じぬが、この者がこのように、声を荒げて怒る
 など、めったにないこと。口論の理由を御説明願えますかな、座間殿、菅原殿」
「この者が、差し出がましくも、座間様の新しい用人の扱いにけちをつけたのです、
 藤原殿!」
菅原が、手にした扇で、佐為を顔を指し示した。
「帝の囲碁指南役を任されたからと言って、座間様の私事にまで口を出すなど、
 この者の思い上がりにも困ったものですな! 藤原殿、貴殿の責任でも
 ありますぞ、これは!」
「ほう…、用人とな。それはもしかして、近頃噂になっている、あの近衛という
 警護役の事ですかな」
僅かに眉をあげて、佐為が行洋の方を見た。
「重陽の節会であの者が披露した舞は、つたないながらなかなか楽しめるもので
 あった。しかし、座間殿、私はあの者の着任に関して、近頃、妙な話を
 聞きましてな」
「噂とな?」


(175)
「あの近衛と言う者の人事に際して、ある公卿から衛門府の官人へ、金が流れた
 とか流れないとか」
座間と行洋が睨みあった。
「検非違使はその務めの性質上、立場の中立が原則。それをそのように金を使って
 動かし、思うように自分の警護役をさだめるなど、たとえどのような大貴族でも
 許されぬ行い。今日明日にでもその官人を問いただそうと思っているのですが、
 これに本当に名のある公卿が関わっているとなれば、大変な騒ぎになりますな」
張りつめた雰囲気の中、かすかに聞こえた歯ぎしりの音は、座間のものか。
歯ぎしりの間から、座間の低い声が漏れる。
「行洋殿、貴公も知っておろう。衛門府の小役人など、金や位階の一つで、
 舌を何枚にも使い分けるもの……、貴公の方こそ、官人に金を握らせて、儂に
 不利な証言を引き出そうとするような真似はくれぐれもなさらぬよう、願いたい
 ものですな」
「いえ、しかし、近衛ヒカルの任官に関する不正の噂はわたしも聞き及んでおります」
突然に割り込んだ四人目の男の声に、皆がそちらを向いた。
「伊角殿」
意外な人物の姿に、つぶやくようにその名を口にしたのは藤原行洋。その伊角の姿を
認めた座間の顔が苦々しげに歪んだ。
「わたしのような若輩者が、このような場に口をはさみ、申し訳ありません」
「いや、いっこうにかまわぬが。噂とな…?」
藤原行洋が面白そうに、若者の顔を見た。
「いいえ、まだ公正なる評定の前。件の官人の正式な尋問もこれからとのこと。
 ここで私のようなものが、根拠もない風聞の内容を軽々しく口にする事は
 いたしますまい。が、座間殿…」
伊角が、体ごと座間の方に向き直る。
「確かに、近衛の任官の件はまだ証拠もない噂事…しかし、私自身がこの目で
 確かめた他の事実もございます」


(176)
空気が揺れた。藤原行洋の糾問にも引かなかった座間が動揺しているのが、
近くで見ていた佐為にも感じられた。伊角には昨日、座間の屋敷に使いを頼んだ。
そして伊角もまたおそらく、そこでヒカルがどんな扱いをうけているのか知ったのだと、
佐為は悟った。
「その事実に関わった他の三人の公卿の顔立ち、姿形についても近衛ヒカル本人より
 聞き及び、だいたい誰が、一昨日の晩の「酒興」とやらにお関わりになられたのかも
 想像がついております」
「ほう、興味深い話ですな、伊角殿」
「伊角殿、それを申すなら、貴公もその三人の公卿と同類であろうが!」
「彼らと一緒にしないでいただきたい。座間殿は御存知なかったかもしれないが、
 私と近衛は旧知の仲。昨日今日知りあったのではないのです」
その事実を今初めて知ったのだろう座間が、目をむいた。
「友人が友人に会いに行って、何がおかしいことがありましょうか? 
 心して聞いていただきたい、座間殿。わたしがこの場で全てをあきらかにしないのは、
 座間殿の立場を思いやってのことではありません。この事が明るみに出た場合、
 検非違使としての近衛の評判に傷がつくのがあまりにも哀れだからです。そして、
 なにより! 国のまつりごとを司る人間がこのような人道にもとる行いをしている
 事が、同じ内裏に務める人間として恥ずかしいからですぞ!」
佐為が殺気だった。



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