裏階段 ヒカル編 176 - 180
(176)
「…さ…い…!!」
限界を超えてなお登りつめようとした間際に、ほとんど半分気を失いかけたような状態で
確かに進藤はその名を呼んだ。
オレの中で何かが強張り固まった。
そして次の瞬間、オレは自分の体が誰かに支配されているのを感じた。
かつての月明かりの下での進藤との対局の時のように周囲が闇に包まれる。
ただ違うのは、オレが組み敷いているのは確かに進藤の肉体であったが、その進藤を
抱いているオレの姿は、オレではなかった。
自らの肩ごしに落ちる艶やかな長い黒髪。
進藤の体を押さえ付けている、男性の骨格ではあるがしなやかで白く細い指先。
何かがオレの中に入り込み、オレを支配し、そうして進藤を抱いている――
そう気付いた時オレの魂は闇の中にはじき出され、空に漂った。
そんなオレの目の前で結びつき合う2人の姿があった。
雪のように桜の花びらが舞う大木の下で、全身を包む程に長い黒髪の年若い男が
進藤と抱き合う姿だった。
あの時の者だ、とすぐにわかった。
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中性的な、ぞっとする程に美しく端正に整った目鼻立ちの相手だった。
生気を感じさせないくらいに白い滑らかな肌と進藤の淡い小麦色の肌が
寸分の隙間も許さぬ位に密接し絡み合う。
どんなに2人の結びつきが深いか見せつけるように。
「…さい…さ…い…」
うわ言のように繰り返し、その両腕を相手の体に絡め、進藤は夢中になって相手の男の
動きに合わせて自ら腰を突き上げより深く相手を求め導く。
「ハア…あ…、もっと…さい…もっと…、壊れても…いい…」
進藤の望みを叶えようとするかのように若い男の動きが一層速まり、激しくなって
同時に両者の全身が震える。
「ああ…っ、さ…い…、佐為…っ!!、ずっと…ずっと…こうしていて…
ずっとオレの中に…いて…!!」
極まった進藤の甘い吐息も悲鳴も全てその男のものであった。
無限の白い小さな花びらがオレの視界を遮り、闇の中に彼等の激しい鼓動だけが響いてきた。
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一斉に花びらが四方に散り消え、動かなくなった進藤の体の上からゆっくり体を離した若い男は、
自分の体の下にまだ荒い呼吸で横たわっている進藤を愛しげに見つめる。
豊かな黒髪の間から覗くその美しい横顔はひどく悲しげだった。
すぐに進藤が必死に探るように腕を伸ばす。相手の顔を両手で包み、撫でる。
それはまるで相手の姿が見えていないような仕種だった。
「いやだ…、さい…、離れないで…」
男の手がそんな進藤の髪や頬を優しく撫でると、進藤はホッとしたように笑んで目を閉じる。
やがて相手の男の口が開き、独り言のように言葉を綴る。
その時はその言葉がオレにも聞こえた。
『…ヒカル…』
この世の中で最愛の相手に与える優しい声だった。
『…ヒカル…ヒカル…』
だがその声は進藤に聞こえてはいないようだった。
指先で相手の唇が動くのを感じながら、それが届かぬ事に苛立つように進藤は声を荒げた。
「…何?なんて言っているの?聞こえないよ、さい…!!」
男は淋しげに笑むと、名残惜しそうに進藤の唇を軽く吸おうとしてその顔を進藤に寄せた。
「消えろ…っ!!」
オレはただ、必死に、取り上げられた餌を取りかえそうとする犬のように
吠えるしかなかった。
その瞬間男の姿は闇に溶けるようにして消えた。
最後にオレに冷たい嘲笑を湛えた鋭い一瞥を向けていった。
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気が付くとオレは、未だ自分と繋がったままの進藤の体熱と脈動を感じていた。
何度も高波にさらわれ揺さぶられ疲れ果てた進藤は、放心状態で横たわっていた。
確かに痕跡はあるものの、進藤の中に自分を蒔き放ったという自覚を持てぬまま
オレは彼から体を離した。
自分の体内の深い部分から熱い肉杭が抜き出る瞬間進藤はビクリと身を震わせた。
「いや…だ!!」
夢の続きのように空ろな目付きのまま叫び、だがすぐにハッとしたように意識を取り戻し、
周囲を見回してオレと目が合った。
現実に引き戻され、進藤の表情が失望のそれに変わる。絶望に近いと言っていい。
互いに言葉はなかった。
ただ進藤の瞳から幾筋も涙が流れ落ちた。
それをそっと指でぬぐい取り、彼の目蓋の上に手を置き目を閉じさせた。
今のオレの顔を見られたくなかった。
更に2〜3、雫が彼の頬を流れ落ちて行った。オレの指先から染み出たもののように。
間もなくして進藤は体を起こすと、僅かな明かりを頼りに無言のまま室内に脱ぎ捨てられていた
自分の服を探して着込み、玄関に向かった。
慌ててオレも服を着る。
「…待て、送ろう」
「いい」
言葉少なに、体の節々が痛むように僅かに足を引きずるようにして彼は出て行った。
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煙草を銜えて火を点ける。苦々しい味が口内を満たす。
おそらく進藤はこれからもここにやって来るだろう。
夢の中で、その場所でしか会えない男と再会する為に。それだけを求めて。
オレのものになりに来るわけではない。手に入れられるわけではない。
だが、オレはそれを拒むことは出来ないだろう。
そして実際、何かを思い出したようにして進藤はやって来た――。
「…痛っ…、ん…ん」
熱を生み出す場所の狭さも、他に例えようもない甘い吐息も
今の進藤はあの頃と何もかも変わらない。
ホテルの間接照明の柔らかな光の中で浮かび上がる汗を纏った痩身と見た目以上に
細く柔らかな髪も、時間が経てば経つ程不機嫌になる反応も。
抱く度に彼が夢遊の旅に彷徨い出るわけではなかった。
だが皮肉な事に、進藤の意識が手元にある場合は、彼自身が限界近くまで
追い詰められながら最後の瞬間まで行き着けない場合が多かった。
そういう時は諦めて彼を解放し、指と口を使って遂げさせてやった。
復讐なのかもしれない。
あの時、進藤を抱いたあの男に最後の抱擁をさせなかった事への。
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