日記 176 - 180


(176)
 「ち………違う………」
「本当だな?」
念を押す伊角の言葉に、和谷は動揺した。
 違う!違う!当て付けなんかじゃない!!――――――――そう叫びたかったのに、
喉に言葉が張り付いて、出てこない。
 「違う!」と悲鳴を上げる心のどこかで、迷いがある。考えれば考えるほど、「違う」と
断言できなくなっていく。本当に………本当に………オレは進藤が好きなんだ………!
それなのに何故、アイツの顔が浮かぶんだ?
 きっかけは確かにあの時だ。和谷に見られていても関係ないというように……………
相手にもしてないように、ヒカルにキスをしていたアキラ…。でも………!違う!本当に
違うんだ!それなのにどうして、そう言えないんだ?
 返事をしない和谷を伊角は静かに見つめていた。
「………どっちにしろお前が進藤にしたことは最低だ………好きだろうとなんだろうと
 許されない……最低の行為だ……」
「………伊角さん……」
「………塔矢はきっとお前を許さないだろう………でも……」
「………」
「………オレは後悔して………傷ついているお前が少し可哀想だと思う……ほんの少しだけ
 だけどな………」
「………!伊角さん……オレ……」
「だけど……進藤はもっと可哀想だ………」
 伊角はそれだけ言うと、静かに部屋を出ていった。後には静寂が残った。


(177)
 和谷は小さく溜息を吐いた。伊角に告白したことで心の中が少し軽くなったような気がした。
だが、それと同時に自分の中の醜いものを改めて思い知らされた。どうして、はっきり違うと
言えなかったのか………答えはわかっている。僅かでも、そんな気持ちがあったからだ。
「進藤……ゴメン……」
絶望して人形のようにされるがままになっていたヒカル………放心したヒカルがフラフラと
出て行くのを和谷は止めることが出来なかった。
 あの時自分は何を言ったっけ………?「ゴメン」と言ったのか?それとも「行くな」と
言ったのか?何にしろそれは意味のない言葉だった。自分にとってもヒカルにとっても………。
 昨日、久方ぶりに会ったヒカルは、和谷が恋い焦がれたヒカルとは別人だった。生気のない
蒼ざめた頬。大きさばかりが目立つ怯えた瞳。和谷が好きだった夏の陽射しのような眩しい
笑顔はどこにもなかった。そして、ヒカルをそんな風にしたのは自分なのだ。それを思うと
胸が裂かれそうだった。
「進藤………進藤………好きだ………本当に好きなんだよ……」
その気持ちだけはウソではなかった。


(178)
 自分が考えていた以上に、重大な事実を知ったというのに伊角は冷静だった。いや、あまりにも
大きすぎて却って頭が醒めてしまったのかもしれない。
 何故、アキラがヒカルのことに、あんなにも必死になるのかその理由がわかった。二人は
只の友人ではない。アキラにとっては何者にも替えられないかけがえのない相手。ライバルであり、
恋人でもある唯一無二の人。
 普通なら男同士でなどとショックを受けていただろうが、今は何となくその気持ちがわかる。
ファミリーレストランで見た二人の姿を思い出した。子犬のようにじゃれ合う二人が微笑ましかった。
そして、二人を取り巻いている今の状況が悲しかった。
「塔矢になんて言おう…………」
まさか、自分の可愛い弟分があなたの大事な恋人を強姦しました――――などとはとても言えない。
かといって、何もわからなかったとシラを切るには伊角は真面目すぎた。


(179)
 「すまない………」
伊角は開口一番頭を下げた。アキラは驚いて、目を白黒させている。伊角はアキラをこの前の
喫茶店に呼び出していた。期待に目を輝かせて、息を切らしてアキラが駆け込んでくるのを
見ると、胸の奥がちりちりと痛んだ。
「………い、伊角さん?」
「本当にすまない……」
戸惑っているアキラに再度、頭を下げた。
「わからなかったんですか?」
落胆の色がアキラの全身を覆った。
「……………そうじゃない………そうじゃないけど………」
「?」
けれど、言えない――――そう言いそうになった口を強く引き結ぶ。
「……………偉そうなこと言って……何も役に立てなくて………本当にすまない……!」
伊角はもう一度頭を下げた。自分でも逃げていると思う。彼が聞きたかったのは、こんな
言葉じゃないはずだ。
 顔を上げた伊角の瞳にアキラの秀麗な顔が映される。だが、その優しげな容貌に不似合いな
鋭い光を、切れ長な両の目に見つけてたじろいだ。


(180)
 「何を知っているんですか?」
低い声で問いかけられる。普段の柔和さをかなぐり捨てたその姿に一瞬だけ、身が竦んだ。
いや、もしかしたらコレこそがアキラの真の姿かもしれない。

 「…………いや……何も………」
伊角は真っ直ぐアキラを見つめ返した。ここで怯むわけにはいかない。もし、自分の口から
アキラに真実を伝えたりしたら、ヒカルはどうなってしまうのか?それを考えると恐ろしかった。
今以上にヒカルは傷つき、壊れてしまうのではないだろうか………。
 それだけは出来ない。あんな痛々しい姿を見た後で、それ以上傷つけるような真似など
出来るわけがない。
それに和谷のことも………やり方は間違っていたが、彼がヒカルを好きな気持ちは本当だ。
……………本当だと思いたい。そうでないとヒカルが可哀想すぎる。そして和谷も………。
自分にとっては、二人とも大切な存在だ。その両方を傷つけることはどうあっても避けたい。
 「嘘だ………あなたは何かを隠している………」
怒りを抑えた声で伊角を問いつめる。
 伊角は答えなかった。何を言えばいいのかわからないと言う気持ちもあったし、何より、
口を開けば、アキラに屈してしまいそうだったからだ。

 「……………………………言いたくないなら、それでもいいです。」
アキラは静かに立ち上がった。そして、その静かさとは正反対の乱暴さで、伊角の手元に
置いてある伝票を取り上げると、そのまま、背中を向けた。
 アキラの姿が見えなくなると、ホッと体中の力が抜けた。こんなに緊張していたのかと、
笑いたくなった。



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