平安幻想異聞録-異聞- 177 - 180
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「その「酒興」とやらの話、まことですか?! 伊角殿」
「伊角殿、そう興奮召さるな。これこのように、菅原殿も座間殿も、貴公の
勢いにのまれて腰が引けておる。いや、座間殿。伊角殿のかわりに私がお詫び
申そう。このような場所に不似合いな大声をあげるとは、評判の伊角殿も
まだまだお若い…」
若い公達をいさめるように穏やかに語る藤原行洋もまた、次には相手を追い落とす、
容赦のない政治家の顔になる。
「しかし、おかげでなかなか趣き深い話が聞けた。どうやら、例の衛門府の役人
買収の件、もっと深く慎重に調べる必要がありそうですな、座間殿」
笑みを絶やすことのなかった座間の口角が、初めてひきつった。
「座間殿、今の伊角殿の話はまことであられるか?」
「行くぞ、顕忠!」
さしものこの大貴族も、内裏でひとかどの名を馳せる三人の貴族に取り囲まれ、
責められては分が悪かった。
佐為の殺意さえ帯びた糾弾の声を無視して、座間と菅原は、清涼殿から足早に
退出した。
その背中を佐為の呪いの言葉が打つ。
「ご覚悟召されよ、座間殿、菅原殿! その所業にふさわしい鳴神のいかづちが、
近く必ずその頭上に落ちましょうぞ!」
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宜陽殿のいつもの書庫で軽い仮眠をとった後、ヒカルは座間達の近従の控える
部屋へ戻るために廊下へ出た。今日はいつもに比べて体が軽い。
それはきっと、昨日の相手が伊角だったからだろう。
伊角はまるで壊れ物でも扱うように、丁寧に自分を抱きしめてくれた。
見知った顔だということで、ヒカルの体の緊張もいつも程でなく、素直に
身を任せられた。
それでも伊角には悪いことをしたと思う。彼にそういう趣味があるなんて
露程も聞いた事がなかったし、もしかしたら、ちゃんとした恋人だっていたのでは
ないだろうか。
(それに俺、次に伊角さんに会ったとき、どんな顔して話せばいいんだよ)
あんな、遊女みたいに褥に誘って、自分から進んで彼の広い背中に手を回した。
最中には足を開いて、快感を逃がすまいと彼の腰を膝ではさんで締めつける
事までした。
思い出しただけで、顔が赤くなるのがわかる。
嫌ってはいないと言ってくれたけど、少なくとも軽蔑はされたんじゃ
ないだろうか。
ヒカルは、じっと自分の右手を見た。
自分の手は、武官として太刀を持つための手だ。なのに、この十日ばかりは
剣を持つどころか、自分や他人の精液にまみれていることの方が多い気がする。
そう考えただけで、事の後で部屋に充満する淫液の独特の生臭い匂いが
思い出されて気が滅入った。
正直言って、夜を迎えるのが怖い。最初こそ、そんな風に思うこと自体を
恥ずかしく思っていたが、今はそんな小さな矜恃も凌駕するほど、その
恐れは心に広がっていた。
今夜はいったい、何をされるのだろうと、そればかり考えてしまう。
そして、自分は今夜も、男子としての誇りや尊厳やそんなものも全て心から
はぎ取られて、誰か男の腕の中で泣きむせぶことになるんだろうか。
何より、それを受け入れつつある自分の体が恐ろしい。
「なーに、暗い顔してんだよ」
後ろから、扇でコツンと頭をはたかれた。
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振り返ると加賀がいた。
「うん、ちょっと…」
「右手がどうかしたか? おまえ、剣の練習はちゃんとしてんだろうな」
「今、加賀と打ちあったら絶対負ける。筒井さんとでも危ないかも」
「おいおい」
呆れた顔で何か言おうとした加賀だったが、沈んだままのヒカルの顔を見ると
話題を変えた。
「あぁ、おまえが知りたいって言ってた、今日の朝議の話、聞いてきてやったぜ」
「ホント!?」
「空きが出た出羽の国司の任官の話だったんだが、座間派の推した奴が敗れて、
よくわかんないどっかの貧乏貴族がその座を手に入れた。推したのはほら、
なんて言ったっけ、お前の知り合いの貴族の…伊角か、そいつだってさ」
「やっぱりねー」
だいたい予想はついていた。昨晩の伊角の言動からだけではない。朝議の後の
座間の機嫌がえらく悪かったことからも想像がついた。実を言うと、いつもなら
とっくに座間邸に帰っているこの時間、まだヒカルがこの場所にいるのもそのためだ。
朝議の後、一度は帰りかけた座間だったのだが、議事が思い通りに運ばなかった
憂さを、後宮務めの女官達にちょっかいを出すことではらそうと、清涼殿のむこうの
弘徽殿に行ってしまったのだ。おかげで、いつもより余計に仮眠がとれたけれど。
「出羽の国には蝦夷がいる。座間の息のかかったやつが、他の国とおなじように
厳しい税をとりたてて私服を肥やそうなんてすれば、反乱は必至だ。まぁ、
正解の人事だろうな。……なんだよ、嬉しそうだな」
「へへっ、ちょっとね」
「しょうがねぇ、ついでにもう少しお前を嬉しがらせてやるよ」
「へ?」
「さっき、そこで会ってさ、お前に会いたいから、まだお前がここにいるようなら
引き止めておいてくれって頼まれたんだ。お、来た来た」
ヒカルは、加賀が視線を運ぶ先を見た。
渡り廊下の向こうから、ヒカルめがけて、華麗な十二単衣の裾を乱して走ってくるのは、
幼なじみのあかりだった。
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あんな、重くて邪魔な十二単衣で走れるなんて、さすがオレの幼なじみだ
なんて、変な感心をする。秋らしい女郎花襲ねの着物が、足に跳ねられて
色が散る様が綺麗だな、と眺めていると、あかりはあれよあれよいういう間に
近づいてきて、そのままヒカルの胸にまっすぐに突っ込んだ。
「うわ〜〜っっ!たったったっ!」
踏ん張りきれなくて、そのまま高欄を乗り越えて中庭に突き落とされそうに
なる。
そのヒカルの腕をすんでのところで加賀がつかんで戻して、笑う。
「まぁ、俺はお邪魔虫っぽいから退散するぜ」
「ええ! 何だよそれ!」
「じゃあな」
「おい!」
渡り廊下をずんずんと歩き去る加賀を引き止めようと延ばした手を、あかりが
袖をつかんで止めた。
「いいの! 私が頼んだんだから!」
「だいたい、お前こんなとこで何してんだよ!」
「何してんのは、ヒカルでしょう!? あんな…あんな遊女や白拍子みたいな
真似させられて! なんで怒んないの! なんで言いなりになってんのよ!」
重陽の節会の折り、自分が座間に言われて披露した舞いの事をいっているのだと
わかった。
ヒカルは体の力を抜いて、あらためて自分の胸にすがりつくあかりの顔を見た。
物心ついた頃からずっと見てきた顔なのに、今初めて会ったような錯覚を覚えた。
いつの間にか鼻筋が通って、目元からも幼さが消えて、女らしくなっていた。
いい匂いがする。佐為や、他の公達たちが香らせているような、作られた香の
匂いじゃない。女の子だけが持っている、独特の切なくなるような甘い薫りだ。
そのあかりが今、自分の胸に体を押し付けるようにして、すぐ近くから自分を
見上げていた。顔を真っ赤にして、心配に目を潤ませて。
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