身代わり 18 - 20
(18)
重みが消えて、ヒカルは安堵した。佐為も大きく息を吐いている。
「大丈夫ですか?」
うつぶせのまま見上げているヒカルを白川が起こした。
「せ、先生、あの、どうも、その……」
お礼を言いたいのだが、言えば悟られてしまう気がしてヒカルは口ごもった。
いや、もうバレているのかもしれない。
白川は黙ったままヒカルの乱れた髪を手で梳いている。
いつもと変わらぬその雰囲気に、ヒカルの気持ちもほぐれていった。
「先生は、いつから来てたんですか」
ヒカルは思い切って聞いてみた。だが白川は笑みを浮かべたまま答えなかった。
じつは部屋の外までヒカルの喘ぎ声は聞こえてきていた。
すぐに状況を察した白川は、続いてやってきた和谷に小金を握らせ、売店でなにか飲みもの
を買うように言った。もちろん後から来た者の足止めも言いつけた。
しかしこのことをヒカルに言う必要はない。
「白川先生?」
見つめてくる白川をヒカルは見上げる。その様に白川は唾液を飲みこんだ。
二人の様子を見ているあいだ、白川は平静でいられたわけではなかった。
(……すぐに止めに入らなかった私も、冴木くんと変わらないですね)
自分が冴木のように行動に起こさないのは、それだけ理性が働いているからだ。
それがありがたくもあり、口惜しくもあった。
《ヒカル、誰か来ましたよ》
笑い声が聞こえる。和谷たちが来たのだ。白川はもう一度ヒカルを見た。
「あまりオフザケは良くないよ」
素直にヒカルはうなずいた。もう二度とあんな目にはあいたくない。
だが、もう一度あの快感は味わいたいと思ってしまった。
(19)
夜明けまえの部屋は暗く、そして冷え冷えとしている。
寒さが堪えるようになってきたな、と行洋は思った。もう四月だというのに。
確実に身体が衰えてきているのだと思い知らされる。
息を吐くと、行洋は碁盤に視線を戻した。
昨夜アキラと打った碁だ。
いつもとかなり違っていた。良い意味でも悪い意味でも、強引なところが強く出た。
その理由はわかっている。
(進藤くんとの対局は、今日か……)
アキラの真剣な表情を思い浮かべる。
打っている最中も、打ち終わった後も、アキラは必死だった。
いつもなら検討をし、助言を与えるのだが、今回はなにも言わなかった。
なにを言っても、今のアキラには何の役にも立たない気がしたのだ。
進藤ヒカルを前にしたとき、アキラは自分の言葉など必要としないだろう。
(ずっとアキラはあの少年のことしか考えていない)
あんなふうにただ一人を追い求めるアキラに、行洋は畏怖さえ感じていた。
それは自分にはないものだった。
もちろん負けたくない、乗り越えたいと思った相手は数多くいた。しかしそれは、アキラの
持つものとは違うものだ。
ここまで、最善の一手を求めて歩んできた。しかしそれは一人でだった。
その時その時に相手はいても、本当の意味で共に歩んできた者はいなかった。
(真の意味で、己を奮い立たせる存在というものに、私は出会えなかった)
だがアキラは出会えた。
もう自分のまえには、そんな相手など現れることはないだろう。
そう考えると、これから先の人生がひどく無味なものに思えてきてしまう。
(20)
「いかんな、こんなことでは」
弱気になってはいけないと自分を叱咤する。
明日に十段戦第三局を控えているのだ。気持ちを萎えさせてはならない。
深呼吸をし、気持ちを落ちつける。外は明るくなりはじめていた。
結局、一晩明かしてしまった。そのせいか頭が重い。
廊下のきしむ音が聞こえてきて、行洋は盤面を崩した。
「お父さん、おはようございます」
「早いな」
「はい、目が冴えてしまって……」
言いながら対面にアキラは正座する。
その表情は今までにないくらい引き締まっていた。
特別な相手との対局を待ち望んでいる顔だ。
息子がどんなに進藤ヒカルと打ちたいと思っていたかを、行洋は知っている。
それが今日、叶えられるのだ。
うらやましい、と心の底から思った。
そしてそう思った瞬間、身体中の力が抜け出ていくような心地がした。
息が苦しい。
周りが急速に色褪せはじめる。
代わりにくっきりと浮かんできたのは、せまい肩幅、細い腕、小さな手――――
『塔矢先生……』
幼い声が自分の名を呼ぶ。明るい黄色の前髪が揺れている。
行洋は手を伸ばそうとして、身体がかたむくのを感じた。
遠くからアキラの叫ぶ声が聞こえた。
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