黎明 18 - 20
(18)
天を見上げ、降るような星々を仰ぎ見る。夕刻には低い空に細く光っていた月は既に沈み、そこ
には見えない。
天を見上げながら、宮中にその才を名高く知られたこの歳若い陰陽師は、天に見える幾千万の
光を、その現象と理(ことわり)とを思った。天にある日も月も星も、みな整然として乱れなく、定め
られた刻に定められた通りに昇り、また、沈んでいく。それらを計り、数え、天の動きから地の動
きを図ることも、彼の才の一つであった。
人々の目には異常とも見える月の赤さも、妖しく強く光りはじめた星も、長く尾を引くほうき星も、
日中に太陽が削られゆき昼日中に都が闇に包まれる事でさえ、全ては天の理の内で、不思議
な事など何一つなく、そうあるべき理由の元に正しい結果としてそう見えるのだということを、彼は
知っていた。ただ、何も知らぬ人にはその過程は見えないから、突然あらわれる現象にある時は
怖れ惑い、ある時は吉兆を見るだけなのだ。
天地(あめつち)の理はゆるぎなく秩序立てられ、その幾何学模様は整然と美しく、流れゆく万象
は彼の目には手に取るように明瞭で、それを見る彼を魅了した。
けれどそれでは、美しく優しかったあの人が自ら命を絶たねばならなかった事も、天の理なのか。
あらかじめ定められた秩序の内なのか。
そんな事はない、と、否定したい気持ちとは裏腹に、それもが正しく秩序であることを認めざるを
得ない自分がいる。それすらも定められた条理の内で、正当な因果として、なるべくしてそうなっ
たのだと言う事は、才長けた陰陽師である彼には否定できない事であった。
世界を司る真理は唯一絶対の真理で、ただそれを見るひとが、ただ一つの真理のうちにそれぞ
れ異なる真実を見るに過ぎないのだ。
それらを深く知った上で、陰陽師は自らの無力を嘆く。陰陽道などと言うものは、所詮、ひとの生
き死ににも、苦しみにも、悲しみにも、何の力にもならぬのだと。
(19)
甘い夢は奪われてしまった。
けれど夢の代償として身に引き受けた寒さは残されたままだった。
日毎、夜毎、吹き荒れる嵐のような飢餓感が彼を襲い、嵐の去った後はただ空虚な闇の中
に彼は取り残された。誰もいない、何もない、自らの呼吸の音さえ聞こえない闇の中で、
虚無が、内から外から、彼を喰い尽くそうと襲い掛かった。いやだ、やめろ、と叫んでも、
発せられた声は闇の中に吸い込まれ、彼の耳に届くことはなかった。何もない空虚な闇だ
けが彼の感じられる全てであった。真空の闇の中で何かを感じて見上げると、鋭い光が、
堅牢に紡ぎ上げた筈の繭を真っ直ぐに切り裂いて己を容赦ない光の元へと晒しだそうとす
る。その鋭い光は暗い虚無以上の恐怖だった。
それでも時折、嵐の合間にふと柔らかな光を感じる。その光に目を凝らすと、白く紗のか
かった輪郭も明暗も全ては不明瞭な視界の向こうに、長い黒い髪が、優しげな暖かな眼差
しが、朧に見える気がする。夢の中で次第に明確になってゆくそれをヒカルは嬉しいと思
いながら、一方で見たくはないと、そのまぼろしを遠くへ押しやって欲しいと願う。背反
する願望にヒカルの心は引き裂かれる。
けれどヒカルの望みとは関わりなく、薄い布が一枚一枚剥がされていくように、霞んだ風
景は日毎に少しずつ明瞭になっていく。そこから目をそらすように、彼は眠りの中に逃れ
ようとした。けれど眠りは彼に安らぎをもたらしはせず、逆に闇が彼を捕えた。それに抗
おうと、そこから逃れようと闇雲に何かを探す手の先に届いた身体に、ただ、しがみつい
た。その肌は今まで知るどんな人よりも熱かった。燃える火のようだと思った。触れるだ
けで焼き尽くされてしまいそうに感じた。燃えるように熱い身体が恋しくて、けれど恐ろ
しくて、それでも他に縋るものなど何もないから、彼はその熱い身体にしがみついた。
その熱は寒さに震える彼の体には心地よかった。だからもっとその熱が欲しくて、煽るよ
うに己の身体を擦り付けた。そうされて益々熱く燃え上がるその身体は、けれど彼がもっ
とも望む熱を彼に与える事は決してなかった。どれ程脅しても、縋っても、焦れて泣いて
も彼の望みは聞き入れられることはなく、だから彼の飢えも満たされる事はなかった。
(20)
香を求める嵐に翻弄される少年を、彼は屋敷の奥の部屋へと移した。
もとより周りの気配には人一倍敏感ではあったが、絶えず隣室の少年の気配をうかがう彼
の神経は休まることはなくなった。
彼の喉から細い悲鳴が漏れ出す。それが始まりの合図だった。
悲鳴は絶叫へと変じ、彼の身体は何かに抗うように暴れる。どこへ、というあてがあって
ではなく、ただここから逃れ出ようとする彼の身体を必死になって押さえつけた。逃げ出
そうと暴れる彼は、この細い身体のどこにそんな力が残されていたのだろうと驚嘆するほ
どだった。
そうして自分を全身で拒否しておきながら、最後には寒さに震え、人肌を求めて縋り付く。
自分が彼に与えられるのはそれだけだった。それでも彼には足りないという事はわかって
いた。必死の力でしがみつく細い身体を愛しいと思う。愛しさに、彼を抱く腕に力を込め
る。けれど、欲しいものはそんなものではないと、腕の中の少年が焦れて涙をこぼす。
自分を認めないくせに、その熱だけを求める彼が、愛しいのか憎いのかわからなくなる。
だから彼の願いを冷たく拒み続けながらも、裸の胸に彼を抱きしめた。
そんな己の矛盾を嘲るような声が己の内から聞こえる。
何に躊躇っているんだ、と、その声は己をそそのかす。
さっさと抱いてしまえ、何を愚図愚図ともったいぶっているのかと。
嫌だ、と、彼は己の内の声に返す。
嫌だ。それではあの屋敷で意識も朧な彼を抱いた男たちと同じではないか。
同じで何が悪い。
違う。僕は彼らとは違う。ただ彼の身体を思いのままにしたい訳ではない。
嘘をつくな。おまえはそうしたくてたまらないくせに。
違う。そうじゃない。
違うって?それじゃおまえのその昂ぶってるモノは何だ。
いいか。よく考えろ。欲しがってるのはあいつの方だ。あいつがおまえを欲していて、お
まえもあいつを欲しているのなら、何を躊躇うことがある?
何を、だって?そんな事はわからない。でも、それでも嫌なんだ。欲しいものはこんなも
のではないんだ。
|