金魚(仮)(痴漢電車 別バージョン) 18 - 32


(18)
 「あ…」
アキラはヒカルを追おうとしたが、ちょうどその時電車が止まり、乗客に押されるまま
ヒカルと反対の方へと流されてしまった。
 アキラはヒカルが気になって、チラチラと何度もヒカルの方へ視線をやった。すっかり
満員になってしまった車両の中では身動き一つままならない。
 他の乗客達に埋もれるように立っているヒカルの表情は、よく見えなかった。
『もう、なんで離れていくんだ。ガードしろって言ったのはキミの方じゃないか…』
今のヒカルはどこから見ても可愛い女の子である。チカンにあっても不思議はないのだ。
 その時、俯いていたヒカルの頭がピクンと跳ねた。何かを避けるようにして、身体を捩らせているのが、
わかる。半泣き顔で、あたりをきょろきょろ見渡して、誰かを捜していた。
『ああ…もう、バカだな…!キミは…』
助けに行きたいが、腕も自由に上がらない。

 「進藤!どうしたんだ!?」
ヒカルに向かって大きく声をかけた。周りの乗客が、一斉に自分に注目する。恥ずかしかったが、
仕方がない。自分が恥を掻くよりも、彼を安心させることの方が重要だ。
 その声のおかげで、ヒカルもやっとアキラを見つけることが出来た。彼は、最初は大きな目を
まん丸にしていたが、ホッとしたのか暫くしてから顔を歪めて、泣き出しそうな声でアキラに訴えた。
「誰かが…スカートの中に手ぇ突っ込んで…お尻にさわってるんだよぉ…」
と、ヒカルが言った瞬間、彼の真後ろの男の身体が僅かに揺れた。その男は慌ててヒカルから
離れようとしている。
「あ…離れた…」
気の抜けたようなその声に、周りの乗客達がクスクスと忍び笑いを漏らす。ヒカルは、きょときょとと
不思議そうに周りを見渡し、それから赤くなって俯いた。
 彼らが笑ったのは、ヒカルをバカにしてのことではない。ヒカルの無防備さと素直さが
とても可愛らしく映ったからだ。実際、自分も当事者でなければ、一緒になって笑っていただろう。
本当に可愛いものを見たと…。


(19)
 次の駅に着いたら、ヒカルを迎えに行こう。彼が何処まで行くつもりかはわからないが、
こうなったらとことん付き合う。ヒカルの気がすむまで、ずっと一緒にいよう。アキラは、
ホームに電車が入っていくのを目の端に映しながら、ヒカルを見つめた。
 ところがその肝心の相手は、ドアが開くと同時に、またもやアキラを残して飛び出して行ってしまった。
もういい加減に追いかけっこは勘弁して欲しい。必死で追い掛けるアキラの前をヒカルが
駆ける。ヒラヒラ軽いプリーツスカート。
あ、まただ―――――
こんな光景前にもあった。でも、それが何時、何処でだったのかまでは思い出せない。
 ふと目を上げると、僅かだが距離が開いているように見えた。アキラはさっきみたいに
引き離されないように、考えることをやめた。

 改札を抜ける直前で、ヒカルを捕らえた。捕まえたその腕を力任せに引き寄せると、彼は
簡単にくるりとまわってしまった。そして、そのままバランスを崩して、倒れかけた。
「わわ…っ!?」
慌ててヒカルの腋の下に手を差し入れて、彼を支えた。
 腕に感じる彼の重みにドキリとした。こんな風に触れるのは初めてだった。掌に彼の鼓動が
伝わってくる。
 ヒカルは支えている腕に身体を預けるようにして、ボンヤリとアキラを見上げていた。
まだアルコールが抜けていないのか、目元がうっすらと赤い。
 そんな目で見つめられると誤解してしまう。首を振って、右手でヒカルの脇を支えながら、薄い背中に左手を回した。
『進藤って…やっぱり細い…』
頭の隅でそんな感想を抱いた。
 アキラはヒカルの身体を少し持ち上げ、しゃんと立たせた。


(20)
 最初は茫然としていたヒカルの表情が見る見る険しくなっていく。ヒカルはキュッと唇を
噛みしめると、アキラに向かって怒鳴った。
「バカ!マヌケ!塔矢の役立たず!オマエのせいで、チカンにあったじゃねえか!」
「は…?」
猫のようにふーふーと逆毛を立て、アキラを威嚇する。
 突然どうした言うのだろう?チカンにあってショックを受けたのだろうか?だが、これに
関しては自分にだって言い分がある。
「キミが勝手に離れたんじゃないか……」
「だって…!」
淡々としているアキラと対照的に、ヒカルは既に半泣き状態だ。
「だって…本当にチカンされるとは思わなかった…!」
ヒカルの両方の目から、涙がポロポロ零れ始めた。
 これは反則だ…どう見ても自分の方が悪者ではないか…周りの視線が痛い。いや…それよりも
胸がズキズキする。
「ゴメン…悪かったよ…」
 アキラは一言そう謝ると、しゃくり上げるヒカルの手を引いて改札を出た。あそこはあまりに
人目がありすぎる。静かな場所に行きたかった。


(21)
 駅のすぐ側に、小さな公園があった。辺りに人気はまったくない。いくら何でも静かすぎないか?
デート帰りのカップルが立ち寄るには早い時間なのだろうか…。人気のない場所にヒカルを
引っ張り込んだと、誤解されはしないかとドキドキした。

 アキラは、手近なベンチに彼を座らせ、自分も隣に腰を下ろした。ヒカルは未だに
シクシクと泣き続けている。
「悪かったよ…」
二度目の謝罪を口にする。
「……で………だよ………」
ヒカルが何か言ったが、しゃくり上げながらだったので聞き取れなかった。
「何?」
「なんで…オレには…意地悪ばっか…するん…だよ…」
―――――え?何?意地悪?ボクが?進藤に? 
アキラはポカンと口を開けた。
「他のヤツには優しいのに……オレには怒ってばっかだし…」
「ちょっと冗談言っただけで…すぐ“ふざけるな”って怒鳴るし…」
確かにヒカルの言う通りだ。
―――――でも、それは………
親愛の情の表れというヤツだ。他の連中のことなど、ほとんど眼中にないのだ。視界に入って
こないものに対して腹を立てる必要などない。ヒカルだから――ヒカルのやることだから
何でも気になるし、目につくのだ。
 だけど、それがヒカルには伝わっていなかった。
『ちょっと、ショックだ…』
親しい相手にだけ見せる本当の自分を、ヒカルも理解してくれていると思っていた。でも
それは、どうやら自分の思いこみだったらしい。アキラは反省した。


(22)
 ヒカルは、尚もアキラを責める。
「オマエがオレを連れてきたくせに……」
その言葉に、また混乱しそうになった。自分がヒカルを何処に連れて行ったというのだ?
ここのことを言っているのだろうか?
「自分の想像と違ったからって…ほっぽり出して…知らん顔して…」
ヒカルは手の甲で目を何度も目を擦りながら、しゃくり上げた。
「オマエがこっちの世界に連れてきたくせに…!」
 そこまで言われて、漸く気が付いた。ヒカルが言っているのは囲碁のことだということに………
―――――確かに、返す言葉もない………
だが、あの時は期待していた分ショックも大きかった。彼の言うところの“ほっぽり出した”
時でさえ、本当のところ気になって気になって仕方がなかった。
―――――要するに、ボクは素直じゃないんだ………
ことヒカルに対しては余計にそうなってしまう。そのくせ、他人に彼をバカにされるのは
ガマンならない。
 ヒカルに関しては、全て自分に優先権があると勝手に思いこんでいる節がある。自分でも
いけないことだとわかってはいるのだけど………
―――――彼を貶しても良いのはボクだけだ……それから、彼の良いところも理解しているのも
ボクだけだ………他の人の目に触れさせたくないんだ………
 ヒカルは俯いて泣きじゃくっている。ヒカルの言葉は、本心からか酔っているためかは
判断つきかねた。
 
『……………あれ…?前にもなんかこんなことがあったような気がする………』
ヒラヒラしたスカート。右へ左へヒラヒラヒラヒラ。軽やかに…泳ぐように…ふわふわ…
ヒラヒラ……ベンチに広がるヒカルのスカート。色が赤なら、まるでガーベラの花のようだ。
………花?…ヒラヒラと水の中を漂う小さな赤い花…それから、大きな目…悲しそうな…
 そして、アッと小さく叫んだ。
―――――思い出した……!
アキラはヒカルの姿に重ねていたものを漸く思い出した。


(23)
 小学校に上がってすぐのことだったと思う。アキラは、母に連れられて近所の大型スーパーに
買い物に行った。それは毎日の日課で、母が買い物している間アキラは中にあるペットショップで
時間を潰し、帰りには二人でアイスクリームを食べて帰るのだ。
 母は動物が大好きで、ガラスケースの向こうで戯れる犬や猫を見ては、いつも溜息を吐いていた。
「どうしてうちでも飼わないの?」
「うちはお客様が多いでしょう。きっと、その子達の世話まで手が回らないと思うの…」
頬に手を当て、また溜息を吐く。それさえもすでに日課になっていた。

 アキラは一人でペットショップの中を見て回る。入ってすぐの壁際にガラスで仕切られた
部屋があって、その中を子犬や子猫が走り回っている。店の少し奥には、小鳥やウサギの
小動物が、その更に奥はサカナのフロアになっていた。目を輝かせて、通路を早足で抜けていく。
 あっちもこっちも可愛くて、目移りしてしまう。
「かわいいなぁ…」
伸び上がったりしゃがんだり、アキラは夢中になって動物たちを覗き込んだ。
「…どうしてもダメなのかな…」
もしも母が許してくれたら、自分は一生懸命世話をする。
 ふーとアキラは溜息を吐いた。その姿は母親にそっくりで、なんだかとても微笑ましい。
すっかり顔馴染みになってしまったショップの店員達がクスクスと笑っている。アキラは
それに気付かずに呟いた。
「でもやっぱりダメだよね。」
アキラはまだ小さくて、自分の世話だけで手一杯だし、母は父と自分と多くの門下生の世話で
てんてこ舞いだ。
 アキラはまた小さく一つ溜息を吐いた。


(24)
 アキラは学校に上がると同時に部屋をもらった。お兄さんになったみたいでうれしかったが、
さすがに夜は少し寂しかった。今までは両親に挟まれて、眠っていたのに……。
 さほど広くはない部屋だったが、六歳のアキラが一人で寝るには静かすぎた。
 『怖いんじゃないんだよ。ただ、ちょっとだけさびしいだけなんだ。』
と、口の中でモゴモゴと独り言を言った。
 犬や猫は無理でもハムスターや小鳥のような小さいものだったら、どうだろう?アキラは
店の奥の方へと入っていった。
 鳥かごが壁に据え付けられ、その前にはウサギのケージが置いてある。その隅の方から
ピイピイといくつもの高い鳴き声が重なって聞こえてくる。アキラは、誘われるように
賑やかな声のする方へ向かった。
 ガラスの水槽の中で、まだ小さいひな鳥たちが一生懸命口を開けて、エサをねだっている。
「かわいいね。」
アキラがエサを与えている店員のお兄さんに話しかけた。
「ヒナのうちから人間になれさせておくと、手乗りになるんだよ。」
「本当?」
手乗りの小鳥。すごくすてきかもしれない。
「まだ自分で食べられないから、一日に何度もあげないといけないけどね。大変だけど
 すごく可愛いよ。」
「一日に何度も?」
「そうだよ。お腹が空くと死んじゃうからね。」
アキラはガッカリした。朝と夕方はいいとして、学校に行っている間はどうなるんだろう。
夜アキラが眠ってしまったら?九時には布団にはいるように言われている。そこから、
朝までヒナが鳴いても目が覚めなかったら?アキラはブルッと小さく身震いした。
――――――小鳥もダメだ。


(25)
 アキラはションボリと項垂れて、さらに奥へと進んでいった。
「ハァ〜」
盛大な溜息を吐いて、通路を歩くアキラの目の端に赤いものが横切るのが映った。
『ナニ?花びら?』
そちらの方へ首を向けると、ヒラヒラした尾びれを振りながら、金魚が泳いで行くのが見えた。
他の金魚よりずっと身体が小さくて、そのくせ元気に水槽の中を泳ぎ回る赤い金魚にアキラの目は
釘付けになった。
「落ち着きないなあ。」
他の金魚がゆったりと水中を漂う中、その一匹だけは忙しなく動き回る。
 アキラはいつの間にかその金魚から目を離せなくなった。

 「アキラさん、ごめんなさい。遅くなってしまって…」
母が重そうな買い物袋を手にアキラを迎えに来た。アキラは夢中になって何かを見ているらしく、
母の声に気付いていない。そっと、後ろから近づいて何にそんなに夢中になっているのかと
覗き込む。
「あら…可愛い。流金ね。」
その感嘆の声に漸くアキラは母が迎えに来ていたことに気が付いた。縋るような目をして
振り向いたアキラに、母は「あら?どうしたの?」と、優しく声をかけた。
アキラは母のスカートに縋り付いた。
「お、お母さん…!」
「ん?」
ゆったりと聞き返す母とは対照的に、アキラはつっかえながら早口で訴えた。
「こ、この金魚買って。ボク、一生懸命面倒見るから…」
「お願いします。」
ぺこりと頭を下げるアキラに、母は少し面食らったようだ。アキラがこんな風に何かをねだるのは
およそ珍しい。
「お願い、お母さん…お手伝いもいっぱいするから…」
アキラは必死に訴える。母の沈黙をアキラは拒絶と考えたからだ。
「よほど欲しいのねえ…」
母がしみじみと…半ば呆れるように呟いた。
「いいわ。でも、アキラさんがきちんとお世話をしてあげるのよ?」
その言葉にアキラは顔を真っ赤にして、何度も頷いた。


(26)
 そうして、金魚はアキラの元に来ることになった。生まれて初めて手に入れた恋しい金魚。
まさに一目惚れといってもよかった。
「水槽も買わなくてはね。」
母がにっこり笑って、指をさす。指した先には、水槽が並べられていた。簡単なプラスチックの
ものから、緒方さん家にあるようなキャビネットが付いている大きな水槽まで所狭しと
並んでいた。
 「どれがいいかしらねえ…」
母同様アキラも迷っていた。何せ、金魚に限らず動物を飼うのは生まれて初めてなのだ。
きょろきょろと廻らせた視線の先に、丸いガラスの器が見えた。
「お母さん、あれがいい。あれにする。」
 金魚の尾っぽとお揃いのヒラヒラの縁取りが付いた丸い金魚鉢をアキラは選んだ。


 金魚と金魚鉢、それから水草と敷石、餌。アキラは小さな両手にそれらを抱えて、よたよた歩いた。
「アキラさん。重いでしょう?お母さんが持ってあげましょうか?」
と言うありがたい母の言葉をアキラは頑なに拒んだ。母の両手も買い物した荷物でいっぱいだ。
それにこれだけは、どうしても自分で持ちたい。
「金魚が大きくなったら、もっと大きな水槽に替えましょうね。」
「うん。」
お店のお兄さんは、金魚鉢より大きな水槽を勧めてくれた。小さな金魚鉢では窮屈で金魚が
死んでしまうのだそうだ。
―――――それなら、金魚鉢なんか置かなきゃいいのに…
ヒラヒラの金魚鉢の中で、アキラの小さな赤い金魚が泳ぐところを想像して、どうしても
欲しくなってしまったのだ。


(27)
 大汗かいて、やっと家に到着した。アキラは自室に飛び込むと、椅子の背に金魚の入った
袋を引っかけた。そして大きな荷物を畳の上に半ば放り出すようにして置いた。腕が
ジンジン痺れて、アキラの小さな手はもう限界だったのだ。
 その時ガシャンと大きな音がした。アキラは慌てて袋の中身を確認した。
「よかった…」
箱から金魚鉢をとりだし、顔の上にかざした。ヒビもキズも入っていない。
「おまえのお家無事だったよ。」
椅子の背に引っかけられたままの金魚に見せると、赤い尾っぽをヒラヒラ振った。

 窓の真下に小さな座卓をしつらえて、その上に鉢を置いた。アキラの部屋の窓には障子が
はまっていて、
カーテンの代わりになっている。障子に夕焼けの色が映っていた。その僅かな灯りが、金魚鉢の
縁を微かに光らせた。
「きっとキレイだろうな…」
アキラは空っぽの鉢を飽きることなく眺め続けた。

 「アキラさん、お水ができたわよ。」
それから暫くして、母が洗面器に水を張って持ってきた。
「大丈夫かな…」
金魚鉢に水を注ぎ込む母の手元を不安そうに覗き込んだ。「大丈夫。大丈夫。」と母は小さく笑った。
 金魚鉢の中には、砂利と水草と水。あとはここに住人が入れば完成だ。
「さあ、お家ができたよ。」
ドキドキと心臓が大きな音を立てている。アキラは恐る恐るビニール袋の中身を開けた。
金魚が水の中でくるりとまわった。
「よろこんでる?」
「そうね。」
 波形の縁取りついたの丸い金魚鉢。碁石によく似た白や黒の小さな敷石。ゆらゆら揺れる水草。
そして、その中を気持ちよさそうに漂う金魚。赤くて小さいアキラの金魚。
 水の中の可愛い金魚と目があった。アキラが笑うと金魚はヒラヒラと尾っぽを振った。

 アキラはうれしくてその夜なかなか眠れなかった。何度も起きては金魚を眺め、終いには
母に叱られた。


(28)
 「アキラ君、金魚飼っているんだって?」
母のあとにくっついてお茶菓子を運ぶ。部屋に入った途端に声をかけられた。
 父の研究会の日、母は朝から大忙しだった。お弟子さんが大勢やってきて、母はお茶の用意や
食事の支度に追われていた。アキラは最初の宣言通り、母のお手伝いをすすんでやった。
お使いもお留守番も「そんなに無理しなくてもいいのよ。」と母が苦笑するほど頑張った。
 アキラは声の主――緒方のお兄さん――を振り仰いで、大きく頷いた。
「すごく、可愛いんだよ。元気がよくて、よく食べるの。」
「へえ、オレも見たいな。アキラ君の自慢の金魚。」
緒方がそう言うと、他の人達も「見たいなあ」と言い出した。
 おそらくアキラへのお愛想だったのだろうが、そんな風に言われて悪い気はしなかった。
「じゃあ、ボク持ってくる。」
アキラは急いで、部屋へと駆けた。

 そぉっと鉢を抱えて、ヨロヨロしながら廊下を進んだ。落とさないように、水を零さないように
ゆっくりと歩く。水が揺れるたび、中の金魚も小さく揺れた。
「おいおい。大丈夫か?」
廊下に出て、アキラが来るのを待っていた緒方が慌てて駆け寄る。そして、そのままヒョイッと
アキラの腕から、金魚鉢を取り上げた。
「あ…」
「ん?どうしたんだい?」
緒方は途方に暮れたように腕を上下している自分を見た。アキラは「あの…」と呟いて、
「ありがとうございます」とぺこりと頭を下げた。

 ………取り上げたというのは正しくない。彼は小さいアキラがよたよたしているのを
見かねて金魚鉢を持ってくれたのだ。
『そうだよ…あのままだったら、転んでいたかもしれないし…落としていたかもしれないし…』
アキラは俯いたまま、緒方の後ろを付いていった。


(29)
 「アキラ君の金魚の到着〜」
緒方が珍しくおどけたように言い、近くの文机の上に鉢を置いた。皆がその周りに集まってくる。
「どれどれ…ウン、いい金魚だ。」
「ハハ…可愛いなあ…オレも飼ってみようかな?」
口々に褒めてくれた。
 アキラはうれしかった。だけど、うれしいのに、なんだか素直に喜べなかった。
『ヘンだなぁ…なんでだろ……』
アキラは口元に笑みを浮かべてはいたが、それは本心からではなかった。
 金魚は小さな鉢の中でクルクル回って皆に愛嬌を振りまいている。それを見て、アキラは
ムッとした。
『なんで?ボクの金魚なのに…』
みんなと仲良くしないで!ボクの金魚なんだよ!?
どうにも胸の辺りがむかむかする。

 「なあ、アキラ君。金魚の名前はなんて言うんだい?」
緒方が首だけ振り向いて、アキラに問いかけた。
 アキラは一瞬ビクンと跳ね上がったが、すぐにプルプルと首を振った。
「なんだあ?もう、一月にもなるのに、いつまでもナナシじゃ可哀想じゃないか?」
緒方の言葉にアキラは赤くなった。別に手を抜いていたわけじゃない。一生懸命考えていた。
一番可愛くてすてきな名前を付けてあげようと、毎日毎日考えていたのだ。
「あれ〜?そういう緒方君は熱帯魚に名前つけているのかい?」
「もちろんですよ。ビビアン、マリリン、マレーネ、それから…」
「ウソばっかり。」
「ウソでも、碁打ちなら棋士の名前を付けてくださいよ。」
笑い声が部屋中に響いた。
 そうこうしているうちに、お茶の時間は終わり、皆再び碁盤の方へと散っていく。
 アキラは悲しくなって、そっと部屋を出て行った。机の上に置かれたままの金魚が不思議そうに
その後ろ姿を見送っていた。


(30)
 その夜、アキラは一人で眠った。何も置いていない窓の下の座卓に背を向けて、頭から布団をかぶった。

 「アキラさん、金魚さんにごはんをあげたの?」
靴を履こうとしていたアキラの背中に母が声をかけた。
 アキラは黙って首を振った。
「お約束したでしょう?」
咎めるような母の口調に、アキラは余計に意固地になった。ランドセルを乱暴に掴むと、
そのまま「いってきます」も言わずに飛び出した。

 『お母さん、金魚にごはんをあげてくれたかなぁ…』
アキラは学校についてからも、ずっとそのことばかり考えていた。授業も集中できなくて、
先生にあてられても答えられないことが二回もあった。
 今、目の前には美味しそうな給食が並べられている。だけど、アキラは箸が進まなかった。
溜息を吐いて、また考える。
『大丈夫。お母さんはちゃんとごはんをあげてくれているよ…』
結局アキラは、給食を半分以上も残してしまった。


(31)
 元気な挨拶の声が教室中に響き渡る。アキラは大急ぎでランドセルに荷物を詰め込むと、
慌てて教室を出て行った。
 アキラのたった六年ぽっちの人生の中で、これ以上ないくらい必死に駆けた。
「ただいま」
と、家の奥に向かって声をかけ、靴を行儀悪く脱ぎ散らかす。玄関先にランドセルを投げ出して、
廊下を走った。
 アキラは、父がいつも研究会で使っている部屋に飛び込んだ。しかし、文机の上には金魚鉢は
置いていなかった。

お母さんがボクの部屋に持っていったのかも―――――

 アキラは今度は自室へと走った。だが、そこにも金魚はいなかった。
「お母さん、お母さん!」
いつものアキラらしくもなく、大声で母を呼びながら家中を探し回った。

 「あ、いた。」
台所のテーブルの上に、ぽつんと置かれた金魚鉢を発見した。
「あれぇ…?」
その中は空っぽだった。水はある。敷石も水草もある。それなのに肝心の金魚がいない。
「どうして?」
嫌な感じがする。
 その時、庭の方から声がした。どうやら、アキラを呼んでいるらしい。
 アキラは行きたくなかった。それでも声に引きずられるように、のろのろと足が勝手に動く。
「アキラさん、帰っていたの?」
縁側に手を付いて、母が家の中を覗き込んでいた。腕を捲り、右手には園芸用の小さなスコップが
握られていた。
「うん…ただいま…」
 母の手元には小さな箱が置いてあった。アキラはそこから目を逸らそうとしたが、どうしても
できなかった。白木の小箱に何が入っているのか――聞かなくてもわかっていた。
「アキラさん…金魚ねえ…」
「ボクがごはんあげなかったから?」
アキラは箱を手にとって、表面を撫でた。だんだん、輪郭がぼやけていく。
「ちがうわよ。朝は元気だったの…でも、さっき見たら、鉢から飛び出してしまっていたの…」


(32)
 ボクが冷たくしたから、追いかけてこようとしたんだ――――
アキラは咄嗟にそう思った。ただの思いこみだったかもしれない。金魚にそんな感情があるとは
思えない。
それでも自分にはそうとしか思えなかった。
 そっと蓋を開けた。白い綿が敷き詰められて、その真ん中に赤い小さな金魚がぽつんと
横になっていた。
 開かれたままの大きな目が悲しげで、責められているような気持ちになった。
「ごめんなさい…」
アキラは堪えきれず、とうとう泣いてしまった。

 庭の一番日当たりのいい場所に、小さな箱を埋めた。
「アキラさん…寂しかったら……」
母はそこまで言いかけて、口を噤んだ。みなまで言わないうちに、アキラが首を振ったからだ。
―――――だって、ボクの金魚はこの子だけだもん…他の子はいらない…
アキラは鼻をすすり上げて、箱の上に土をかけた。小さな白い箱はすぐに見えなくなってしまった。



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