平安幻想異聞録-異聞- 180 - 184


(180)
あんな、重くて邪魔な十二単衣で走れるなんて、さすがオレの幼なじみだ
なんて、変な感心をする。秋らしい女郎花襲ねの着物が、足に跳ねられて
色が散る様が綺麗だな、と眺めていると、あかりはあれよあれよいういう間に
近づいてきて、そのままヒカルの胸にまっすぐに突っ込んだ。
「うわ〜〜っっ!たったったっ!」
踏ん張りきれなくて、そのまま高欄を乗り越えて中庭に突き落とされそうに
なる。
そのヒカルの腕をすんでのところで加賀がつかんで戻して、笑う。
「まぁ、俺はお邪魔虫っぽいから退散するぜ」
「ええ! 何だよそれ!」
「じゃあな」
「おい!」
渡り廊下をずんずんと歩き去る加賀を引き止めようと延ばした手を、あかりが
袖をつかんで止めた。
「いいの! 私が頼んだんだから!」
「だいたい、お前こんなとこで何してんだよ!」
「何してんのは、ヒカルでしょう!? あんな…あんな遊女や白拍子みたいな
 真似させられて! なんで怒んないの! なんで言いなりになってんのよ!」
重陽の節会の折り、自分が座間に言われて披露した舞いの事をいっているのだと
わかった。
ヒカルは体の力を抜いて、あらためて自分の胸にすがりつくあかりの顔を見た。
物心ついた頃からずっと見てきた顔なのに、今初めて会ったような錯覚を覚えた。
いつの間にか鼻筋が通って、目元からも幼さが消えて、女らしくなっていた。
いい匂いがする。佐為や、他の公達たちが香らせているような、作られた香の
匂いじゃない。女の子だけが持っている、独特の切なくなるような甘い薫りだ。
そのあかりが今、自分の胸に体を押し付けるようにして、すぐ近くから自分を
見上げていた。顔を真っ赤にして、心配に目を潤ませて。


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「お前、怒ると顔が赤くなるのは昔っからだよなー」
「バカ!」
あかりがヒカルの胸を両の手でドンと叩いた。
「誰のせいだと思ってんのよ!」
「もしかして、俺のせい?」
からかってやるつもりの言葉。いつものあかりなら「そんなわけないでしょ、
ヒカルのことなんて気にしてないもん」とでも返ってくるはずが、今日は違った。
「他に誰がいるの?」
ヒカルはどう返していいかわからず黙った。
「あんなに、佐為佐為って言って佐為様にくっついて歩いてたくせに。
 どうして座間様のとこになんかいるのよ。内裏でだって、ぜんぜん佐為様と
 顔も合わせてないでしょ、変じゃない」
「座間…様の警護の仕事は、そりゃ、検非違使の仕事だからしかたないよ。」
「菊の節句で、あんなふうに躍れもしない舞いを舞わされるのも仕事なの?
 近衛の家のお母様やおじい様も放っておいて、座間様の家に泊まり込みまで
 して? 座間様の警護の衛士なんて他にいっぱいいるじゃない!」
あかりの手が、ヒカルの頬に延びた。
「顔色悪い。ちゃんと寝てる? 前よりやせて細くなったでしょ?
 ヒカル、最近、ずっとフラフラじゃない。遠くから見てたってわかるよ。
 そこまでしなきゃいけない仕事なの? なんでそんなに無理してるの?
 それにね、一番わかんないのは、ヒカル自身だよ。なんで黙ってんの?
 なんでそこまでされて怒んないのよ! そんなの、ヒカルじゃないでしょう!?」
激昂するあかりの潤んだ目じりから、透明な雫が一粒、こぼれて落ちた。
ここにも自分を心配してくれる人がいた。
佐為や賀茂だけじゃない、加賀や伊角、あかりもこうして怒って涙を流すほどに、
自分の身を案じてくれている。人は、自分の事を思ってくれる人がいるという
だけで、こうも勇気付けられるのだと、ヒカルは初めて知った気がした。
だからヒカルは笑いながら謝った。


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「ごめん」
「謝って欲しいわけじゃないわ」
「だけど、本当に今はだめなんだ。色々あってさ。大きな声じゃいえないけど
 嫌なことばっかりだよ。でも、俺はこれが終わるまでは、近衛の家に帰るわけ
 にいかないんだ」
「私じゃ、相談相手にもならない?」
ヒカルは頷いた。いつか…でもいつかそのうち、今日この時の事を「あの時は
こんなことがあってさぁ」と、あかりに笑って話せる日はくるだろうか?
「そう…」
あかりがあんまり寂しそうに俯くので、ヒカルは言葉を付け足した。
「あかりじゃなくても、他の誰でもだめなんだ。そういうのってあるじゃん。
 誰でも、ひとりで我慢して、ひとりで考えなくちゃいけない事っていうのがさ」
俯いていたあかりが顔をあげた。そして、さっきまで興奮で赤らめていた頬を
別の意味で赤らめた。
「ヒカル、大人になったよねー」
「なんだよ、急に」
「うん、かっこよくなったよ」
そう言って、目を細めたあかりに、今度はヒカルが頬を染める番だった。
長い睫毛。女性らしいこじんまりした顔立ち。首からのびる、なだらかな肩の線。
こいつはいつのまに、こんなに女性の色香を漂わせるようになったんだろう。
自分とあかりは、昔っから、兄妹のように一緒にいた。よく川遊びもして、
水浸しになっては、河辺で着物を乾かしてから家路についたりしたから、
お互いの裸だって飽きるほど見てる。秋の野原にトンボを採りに行って、あかりが
ギンヤンマに指に思いきり噛みつかれ、そのトンボの思わぬ反撃に泣き続ける彼女を、
意地を張って、ずっと家までおぶって帰ったのだって、つい昨日の事のようだ。
自分達はそうやって、随分長い間ひとつのものを共有し続けていたのに、
いつのまにか男と女になっていて、別の世界の生き物になってしまった。そんな
不思議な感じだった。
ふいに紫宸殿の方で、気配が動いた。
ヒカルが見ると、清涼殿から紫宸殿へを渡って、こちらに来ようとしている座間と
菅原の姿が見えた。


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足早にこちらへと歩いてくる。
だが、その纏う空気が尋常ではない。
ここからではあの二人の表情は遠くて見えないが、ヒカルはその気配の違いを
敏感に肌で感じ取った。
「ヒカル?」
「あかり、お前、早く戻れ」
「え?」
急に真剣な面持ちになったヒカルにあかりは戸惑った様子だったが、幼なじみで
気心が知れているせいか、彼女も敏感にヒカルの緊張を感じ取った。
「やだ、どうしたの? ヒカ…」
あかりも座間と菅原の姿に気付いた。その普通ではない気配にも。
何かまずい気がする。あかりとここにいるのを見られるのは。
「お前、ここにいない方がいい」
「え……だけど」
「俺と一緒にいられるの見られたら、お前まで目をつけられるぞ」
あかりが、ヒカルの着物の袖をぎゅっとつかんで、心配そうな顔で見上げた。
その間にも、座間と菅原は肩を大きく揺らしながら、どんどんこちらに近づいて
くる。明らかに様子がいつもと違う。
「でも…」
なおもヒカルの袖をギュッとつかんで離そうとしないあかりの背を抱き寄せて、
ヒカルはその白いおでこに、ひとつ、口付けを落とした。こんな格好つけた真似、
今まで一度だってした事は無かったけれど。
あかりが驚いたように目を見開いてヒカルを見た。
「俺は平気だから。大丈夫だから」
袖を掴むあかりの指をはがす。
「行け、あかり」
たぶん、今一番好きな人間は誰かと聞かれたら、自分は迷わず佐為と答える
だろう。だけど、異性にそれを限るなら。女性の中でと聞かれたら。あかりは
ヒカルにとって、今でも一番かわいくて、一番大事な女の子だ。
真っ赤な顔をして小さく頷くと、あかりは身をひるがえし、やってきた春興殿の
方向に足早に立ち去った。


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その十二単衣の裾が、渡り廊下の向こうの建物の影に隠れて見えなくなるのを
見届けて、ヒカルは振り返った。
座間と菅原はすぐそこにいた。
ここまで来れば、その目に宿った剣呑な光もはっきりわかる。顔が理由の
わからない怒気にまみれいるのも。
誰彼かまわず、噛み裂く相手を求めている獣の顔だ。
背筋を冷たいものが走った。
「儂のいない間に、どこぞの女房とお楽しみか? 気楽な身分よの、
 検非違使殿」
地鳴りのような低く掠れる声でそれだけ言うと、座間はヒカルの腕を取り、
抵抗するヒカルを引きずるように引っ張って行き、貴族達のの近従の控室近く、
使われていない空いた空間に乱暴に放り込んだ。
床にしたたかに背を叩きつけられて、ヒカルは一瞬息を詰める。
それでも何とか立ち上がろうとしたヒカルだが、すぐに今度は投げつける
ようにして突き飛ばされ、中柱に肩を強く打ち付け、その場に崩れるように座り
込んで、痛みに喘いだ。
中柱の根元に肩を押さえてうずくまるヒカルに座間が近づき、それをそのまま
荒々しく引き倒し、四肢を押さえつける。
自分の上にのしかかる男のその顔に、怒気と共にはっきりとした情欲の色が
浮かんでいるのをヒカルは見た。



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