平安幻想異聞録-異聞- 181 - 182
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「お前、怒ると顔が赤くなるのは昔っからだよなー」
「バカ!」
あかりがヒカルの胸を両の手でドンと叩いた。
「誰のせいだと思ってんのよ!」
「もしかして、俺のせい?」
からかってやるつもりの言葉。いつものあかりなら「そんなわけないでしょ、
ヒカルのことなんて気にしてないもん」とでも返ってくるはずが、今日は違った。
「他に誰がいるの?」
ヒカルはどう返していいかわからず黙った。
「あんなに、佐為佐為って言って佐為様にくっついて歩いてたくせに。
どうして座間様のとこになんかいるのよ。内裏でだって、ぜんぜん佐為様と
顔も合わせてないでしょ、変じゃない」
「座間…様の警護の仕事は、そりゃ、検非違使の仕事だからしかたないよ。」
「菊の節句で、あんなふうに躍れもしない舞いを舞わされるのも仕事なの?
近衛の家のお母様やおじい様も放っておいて、座間様の家に泊まり込みまで
して? 座間様の警護の衛士なんて他にいっぱいいるじゃない!」
あかりの手が、ヒカルの頬に延びた。
「顔色悪い。ちゃんと寝てる? 前よりやせて細くなったでしょ?
ヒカル、最近、ずっとフラフラじゃない。遠くから見てたってわかるよ。
そこまでしなきゃいけない仕事なの? なんでそんなに無理してるの?
それにね、一番わかんないのは、ヒカル自身だよ。なんで黙ってんの?
なんでそこまでされて怒んないのよ! そんなの、ヒカルじゃないでしょう!?」
激昂するあかりの潤んだ目じりから、透明な雫が一粒、こぼれて落ちた。
ここにも自分を心配してくれる人がいた。
佐為や賀茂だけじゃない、加賀や伊角、あかりもこうして怒って涙を流すほどに、
自分の身を案じてくれている。人は、自分の事を思ってくれる人がいるという
だけで、こうも勇気付けられるのだと、ヒカルは初めて知った気がした。
だからヒカルは笑いながら謝った。
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「ごめん」
「謝って欲しいわけじゃないわ」
「だけど、本当に今はだめなんだ。色々あってさ。大きな声じゃいえないけど
嫌なことばっかりだよ。でも、俺はこれが終わるまでは、近衛の家に帰るわけ
にいかないんだ」
「私じゃ、相談相手にもならない?」
ヒカルは頷いた。いつか…でもいつかそのうち、今日この時の事を「あの時は
こんなことがあってさぁ」と、あかりに笑って話せる日はくるだろうか?
「そう…」
あかりがあんまり寂しそうに俯くので、ヒカルは言葉を付け足した。
「あかりじゃなくても、他の誰でもだめなんだ。そういうのってあるじゃん。
誰でも、ひとりで我慢して、ひとりで考えなくちゃいけない事っていうのがさ」
俯いていたあかりが顔をあげた。そして、さっきまで興奮で赤らめていた頬を
別の意味で赤らめた。
「ヒカル、大人になったよねー」
「なんだよ、急に」
「うん、かっこよくなったよ」
そう言って、目を細めたあかりに、今度はヒカルが頬を染める番だった。
長い睫毛。女性らしいこじんまりした顔立ち。首からのびる、なだらかな肩の線。
こいつはいつのまに、こんなに女性の色香を漂わせるようになったんだろう。
自分とあかりは、昔っから、兄妹のように一緒にいた。よく川遊びもして、
水浸しになっては、河辺で着物を乾かしてから家路についたりしたから、
お互いの裸だって飽きるほど見てる。秋の野原にトンボを採りに行って、あかりが
ギンヤンマに指に思いきり噛みつかれ、そのトンボの思わぬ反撃に泣き続ける彼女を、
意地を張って、ずっと家までおぶって帰ったのだって、つい昨日の事のようだ。
自分達はそうやって、随分長い間ひとつのものを共有し続けていたのに、
いつのまにか男と女になっていて、別の世界の生き物になってしまった。そんな
不思議な感じだった。
ふいに紫宸殿の方で、気配が動いた。
ヒカルが見ると、清涼殿から紫宸殿へを渡って、こちらに来ようとしている座間と
菅原の姿が見えた。
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