日記 181 - 185
(181)
「ヒカル?今日は森下先生の研究会どうするの?」
ドアを半分だけ開け、母がそこから顔を覗かせた。
ヒカルはベッドの中でタオルケットにくるまって背中を丸めていた。眠っていたわけではない。
ただ、何もする気が起きないのだ。
「気分悪いの?」
心配そうな声に、ヒカルは背中を向けたまま、黙って首を振った。
「………そう……どうする?お休みする?」
「……………」
ヒカルは暫く考えて、やがて頷いた。
「そう………じゃあ……電話しておくわね……」
静かにドアが閉じられて、ヒカルはまた一人になった。
両親は自分がまた篭もりがちに、なったことを心配している。わかっている。このままでは
いけないことぐらい。ちゃんとわかっているのだ。
でも、もう緒方の所には行けない。外に出るのも怖い。緒方や家族以外の男の人が怖いのだ。
それに……………
――――また、和谷にあったらどうしよう………
そのことを考えると恐ろしくて仕方がなかった。
「………塔矢に会いたいな…」
無意識のうちにでてしまった呟きは、ヒカルの真の望みだ。
「手紙………どうなったかな……」
もう、アキラの手元に着いただろうか?それを読んでアキラはどう思っただろうか………。
勝手なヤツと軽蔑しただろうか?それとも―――――
涙の雫が髪を濡らした。
「塔矢に会いたい…………」
でも、嫌われるのはイヤだ。口から嗚咽が漏れる。
ヒカルは枕に顔を埋めた。そうやって、いくら瞼を押さえても、涙は止まらなかった。
(182)
「久しぶりだな、和谷。」
和谷が棋院でエレベーターに乗り込もうとしたとき、冴木が声をかけてきた。
「お前も、調子が悪かったらしいな。大丈夫か?」
心配そうに問いかけられて、和谷は曖昧に頷いた。本当は、ここに来るつもりはなかった。
だが、いつまでも部屋の中に隠れているわけにもいかなかった。
―――――お前も、調子が悪かったらしいな…………
『お前も』と、言う言い方はもう一人調子が悪い人物がいることを指している。それが、
誰なのかは聞かなくてもわかっていた。
「進藤、今日来るかな………」
冴木が呟いた。
『進藤』と、聞いた瞬間、頬が強張った。冴木に自分の今の表情を見られたくなくて、
自然にうつむき加減になる。
「アイツ、病気なんだって?」
どんな具合だと和谷に話を振ってきた。
「…………オレ……会ってないから……」
と、嘘を吐いた。
「え―――冷たいなぁ。あんなに仲がよかったくせに……」
冴木は和谷を非難した。本気の言葉でないことくらい口調でわかる。だけど、今の自分にとって
何より辛かった。
「オレも先週聞いたばっかりだ。忙しくて機会がなかったけど、今日来なかったら、帰りに
寄ってみようかな。お前も行く?」
「…………オレは……」
ヒカルは自分に会うことを望んではいないだろう。和谷は断ろうと口を開きかけた。そのとき、
ちょうど目的の階に到着した。
(183)
「こんにちは―」
軽い挨拶を投げ、研究会が行われている対局室に二人で入っていく。和谷の返事は中断されたままだったが、
冴木は自分がもう一緒に行くものと思っているようだった。
部屋の中を見渡すと、いつもの面子がもうそろっていた。一人を除いてだが……。冴木も
同じ事を考えていたらしい。
「師匠、進藤は?」
「具合が悪いんだと……今日も休ませてくれってお母さんから連絡があった……」
森下がムッツリと答えた。
「心配ですね………」
白川が顔を曇らせる。彼はヒカルが小学生の頃からよく知っている。白川の囲碁教室に
ヒカルがしばらく通っていたからだ。
「よくないんでしょうか……あんなに元気な子だったのに……」
直接顔を合わせていないにしろ、ヒカルがひどく具合が悪いらしいという話はここにいる者は
全員知っているようだった。
「………本当にな……和谷、お前何か知らんのか?」
「…………」
みんなどうして自分にそれを聞くのだろうか?和谷は溜息を吐いた。仕方のないことだ…
自分はヒカルと仲がよかった。この中の誰よりも……。一番仲がいいと思っていた。
ただ、ヒカルにはそれ以上に大切な相手がいて…………自分はどうあってもその相手に
勝てないのだ。
ヒカルと一緒にいるときは時間が過ぎていくのが早かった。だが、今日は―――――
たったの一分が十分にも一時間にも感じた。
(184)
靴の紐を結ぶ和谷の横に、冴木も並んで靴を履いた。
「さ、行こうか?」
和谷は答に窮した。行けるわけがない。自分がヒカルのところへなど――!
そんな和谷に気付かずに、冴木はエレベーターの方へすたすたと歩いていく。和谷は
慌てて後ろを追いかけた。
「――――冴木さん……オレ………ッ!」
行かない………行けない――――――――!
そう叫ぼうとしたとき、別の方向から声をかけられた。
声のした方へ顔を向けると、階段の側に伊角が立っていた。
「………伊角さん……」
「すまない。話があるんだけどいいかな?」
助かった。和谷はちらりと冴木を見た。
「しょうがないな………明日にしようか………」
冴木は腕時計に目を落とした。
「顔を見るだけですぐに帰るつもりだったけど……ちょっと遅いしな。」
冴木は和谷達に別れを告げ、エレベーターに乗り込んだ。
「スマン…どこかへ行くところだったのか?」
「いいんだ………進藤のところになんて行けないし………」
その言葉に伊角は黙り込んでしまった。
(185)
誰もいない対局室に二人の沈黙が落ちる。伊角が話し始めるのをしばらく待っていたが、
自分の方が先に焦れてしまった。
「………伊角さん…話って何?」
「……………塔矢に会ったよ……」
自分はよほど驚いた顔をしていたのだろう。伊角は和谷の顔色に驚いていた。
「な、なんで………塔矢が………」
恥ずかしいほどに狼狽えている自分が滑稽だった。
「塔矢に訊かれたんだ………進藤のこと………」
―――――ああ……そう言うことか……
この前来た理由の半分は、アキラに頼まれていたから………
ヒカルを心配して、それほど親しくもない伊角にまで声をかけて………自分だって、
ヒカルのことを考えるだけで胸が痛む。それなのに、何だろう。この気持ちは………
身のうちから急に湧き起こる凶暴な感情は………!
「…それで、これから、進藤のことを考えよう……オレも一緒に……」
伊角が何かを話している。ヒカルのことをどうするかとか、自分も手を貸すとか、言っている
みたいだが、それらの言葉はみな頭の中を素通りしていく。
ただ、「塔矢が伊角に進藤のことを訊ねてきた」という事実だけが頭の中に残った。
「……へえ……それで言ったの?」
一瞬、伊角は言葉の意味を図りかねたらしく、ぽかんと口を開けた。が、すぐに和谷が言わんと
している事を察し、
「バカ!言えるわけないだろう!!何を言っているんだ、お前!」
と、怒鳴った。普段は物静かだが、こういう風に一喝されるとなかなか迫力がある。まるで
他人事のような感想を抱いた。
「何で?言えよ!言えばいいじゃんか!」
「和谷!」
遮る伊角を無視して、ほとんど叫ぶようにして言い捨てた。
「オレが進藤をヤッたってさ!!」
そのとき、ガタリと大きな音がした。
「どういうこと?」
二人はギクリと振り返る。そこに青白い人影が見えた。誰もいないはずの入り口に、
塔矢アキラが立っていた。
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