日記 184 - 186
(184)
靴の紐を結ぶ和谷の横に、冴木も並んで靴を履いた。
「さ、行こうか?」
和谷は答に窮した。行けるわけがない。自分がヒカルのところへなど――!
そんな和谷に気付かずに、冴木はエレベーターの方へすたすたと歩いていく。和谷は
慌てて後ろを追いかけた。
「――――冴木さん……オレ………ッ!」
行かない………行けない――――――――!
そう叫ぼうとしたとき、別の方向から声をかけられた。
声のした方へ顔を向けると、階段の側に伊角が立っていた。
「………伊角さん……」
「すまない。話があるんだけどいいかな?」
助かった。和谷はちらりと冴木を見た。
「しょうがないな………明日にしようか………」
冴木は腕時計に目を落とした。
「顔を見るだけですぐに帰るつもりだったけど……ちょっと遅いしな。」
冴木は和谷達に別れを告げ、エレベーターに乗り込んだ。
「スマン…どこかへ行くところだったのか?」
「いいんだ………進藤のところになんて行けないし………」
その言葉に伊角は黙り込んでしまった。
(185)
誰もいない対局室に二人の沈黙が落ちる。伊角が話し始めるのをしばらく待っていたが、
自分の方が先に焦れてしまった。
「………伊角さん…話って何?」
「……………塔矢に会ったよ……」
自分はよほど驚いた顔をしていたのだろう。伊角は和谷の顔色に驚いていた。
「な、なんで………塔矢が………」
恥ずかしいほどに狼狽えている自分が滑稽だった。
「塔矢に訊かれたんだ………進藤のこと………」
―――――ああ……そう言うことか……
この前来た理由の半分は、アキラに頼まれていたから………
ヒカルを心配して、それほど親しくもない伊角にまで声をかけて………自分だって、
ヒカルのことを考えるだけで胸が痛む。それなのに、何だろう。この気持ちは………
身のうちから急に湧き起こる凶暴な感情は………!
「…それで、これから、進藤のことを考えよう……オレも一緒に……」
伊角が何かを話している。ヒカルのことをどうするかとか、自分も手を貸すとか、言っている
みたいだが、それらの言葉はみな頭の中を素通りしていく。
ただ、「塔矢が伊角に進藤のことを訊ねてきた」という事実だけが頭の中に残った。
「……へえ……それで言ったの?」
一瞬、伊角は言葉の意味を図りかねたらしく、ぽかんと口を開けた。が、すぐに和谷が言わんと
している事を察し、
「バカ!言えるわけないだろう!!何を言っているんだ、お前!」
と、怒鳴った。普段は物静かだが、こういう風に一喝されるとなかなか迫力がある。まるで
他人事のような感想を抱いた。
「何で?言えよ!言えばいいじゃんか!」
「和谷!」
遮る伊角を無視して、ほとんど叫ぶようにして言い捨てた。
「オレが進藤をヤッたってさ!!」
そのとき、ガタリと大きな音がした。
「どういうこと?」
二人はギクリと振り返る。そこに青白い人影が見えた。誰もいないはずの入り口に、
塔矢アキラが立っていた。
(186)
「進藤をどうしたって?」
アキラの顔色は蒼く、まるで能面のように無表情だった。その剣呑さに、当事者の和谷よりも、
部外者である伊角の方が慌てた。
「ま、待ってくれ……!」
真っ直ぐに和谷の方へ向かってくるアキラの前を伊角が遮った。
アキラは足を止め、じろりと伊角を睨んだ。切れ上がった眦が、その怒りの凄まじさを表して
いる。
「和谷はその………」
何を言おうとしているのか自分でもわからない。ただ、アキラを止めなければ――――その
気持ちだけで、二人の間に割って入ってしまった。
アキラにだけは知られたくなかった。こんな形で、こんな事を………。
―――――何とか誤魔化せないだろうか………
だが、アキラの顔を見る限り、それは無理だと一瞬で悟った。
『ゴメン………進藤……』
「どいてよ、伊角さん………」
背中に和谷の低い声がぶつかった。
「伊角さんは関係ない………ゴメン……」
伊角に謝罪する和谷の声は、静かだった。
和谷が伊角の身体をそっと脇へ押した。そうして、正面から、アキラと向かい合った。
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