裏階段 ヒカル編 186 - 190
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怒っているわけではなさそうだったが、アキラのその視線からは目を反らした。
そんなオレの表情に確信を持ったのだろう。今度はアキラが小さく溜め息をついた。
別にアキラは進藤の事でオレと張り合おうとしている訳ではないらしかった。
ただ確認したかった、しておくべきだと彼なりに判断したのだろう。
ひょっとしたら、アキラもまた、進藤と体を重ねる事で一つの失望を味わったのかもしれない。
思わず苦笑が漏れる。
「ハハッ…、それでお前は進藤ともオレとも碁を打ち、sexもするか。
ちょっと欲張りすぎじゃないか?」
「…いけませんか?欲しいものを求めてはいけませんか?」
「ハ…ハ」
忘れていた。こいつはまだ若いのだ。望むものを求めて奔り続ければ必ずそれが
全て手に入ると信じ切っている世代なのだ。
何度か電燈の下で無理矢理こいつの体を開かせ、オレのモノを体内に銜え込んだ
自分の姿を鏡に向け曝け出してやった事があった。
だがこいつは嫌がるどころかむしろ興奮の度合いを高めた。
内部からオレに突き上げられる度に自分自身が震え、体液を吐き出す瞬間をこいつは
上気した恍惚とした表情で眺め観察していた。
自分のその部分が異物を吸い込み、吐き出し、蠢く様に魅入っていた。
ある時そのあまりに熱心なアキラの視線が、オレのモノ自身のその奥に注がれているのに
気付いて止めた事があった。
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こいつが受け入れるだけの立場で満足できるはずがない。
いつかはアキラの中で確実に「雄」の欲求が育っていくだろう。
オレさえも「支配」しようとするかもしれない。
欲しいものが手に入っただけでは飽き足らず、貪欲に、それを上回る快楽がまだあると信じて
次の段階へ進もうとする。
欲しいものを手にいれようと地の底でもがきあがく浅ましい自分の姿を
隠そうともしない。その姿が哀しくて愛しくて、
だからこいつを手放す事が出来なかったのだ。
もしかしたらアキラも、同じ思いでオレを見つめているのかもしれない。
テーブルの上のコーヒーは互いに手をつけられないままだった。
褐色の闇に己の姿が映り込んでいる。
それが一瞬あの黒髪の若い男に変わる。
何かを追い求める意識の集合体、象徴のようだったsaiという存在。
本当に欲しいものを手に入れて、彼は消えたのだろうか。
それとも、決して手に入れられないものがあると知って
潔く消えるしかなかったのだろうか。
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そのホテルの部屋は窓とは形ばかりで、カーテンを開いてもガラスの向こうは
木戸が固く閉ざされていた。
戻るべき日常から恋人達を隔絶する為に、この部屋はある。
「あれ…開けられないのかな、ここ…あ、あった!」
数カ月人が触れた形跡のないその木戸の鍵をこじ開けて進藤は外の景色を見る。
室内灯とは異質の光が部屋に満ちる。
「すっかり明るくなってる…マジでもう帰らないとさすがにヤバいよ、緒方先生」
進藤が身支度を始める。
「そうだな」
進藤が飲み散らかした空き缶や使用した夜着やタオルの類が散乱している中で
オレも服を着替える。
進藤と過ごした濃厚な時間を、全てここに置いていかねばならないのだ。
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時間をかけ過ぎた往路と引き換えに、都心へ戻るのに高速を使って時間をできる限り
短縮しなければならなかった。
窓の外の景色が単調になり、助手席で進藤が何度も欠伸を繰り返す。
「寝ていていいぞ」
「やだ。オレ、死にたくない」
「どういう事だ?」
「助手席の人が寝ると運転手の人も眠くなるんだよね。高速だと特に」
「そう思うのなら、何か話をしてくれないか」
「うーん」、と唸って進藤は何か会話の糸口を考え込む。
世代のギャップがあるのは十分わかっているが、彼が何を話題にするか
多少の興味があった。
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「…緒方先生ってさあ、結婚しないの?」
唐突な質問に、一瞬返事に窮する。
「そうだな…死に損ないのジジイからタイトルを剥ぎ取ったら、考えるか」
真面目に答えたつもりだったが、進藤が「ひゃっ」と肩を竦める。
「…緒方先生が桑原先生の事を“ジジイ”呼ばわりしている噂って、本当だったんだ…
…だけど桑原先生、復帰するのかな…」
「してもらわないと、困る」
あれだけ憎まれ口を叩いていた桑原は、現在もう一ヶ月近く入院していた。
オレとのタイトル戦の最中に倒れて病院に運ばれた。意識が戻らない状態が続いている。
病室の桑原のベッド脇で、以前、進藤と先生の対局を見守った席で桑原から差し出された銘柄の
煙草の箱を取り出し、それを置いた。
その時、あの耳障りなしゃがれた笑い声と共に桑原がこちらに話しかけて来た。
『しおらしいのお、緒方くん。
あやつの真価を、まだ儂は問うておらん。…できれば
この手で確かめてみたかった。
だがどうも儂のところになかなか素直に来よらん。
このまま時間切れにするつもりはないが、
まあ、いざという時のために儂の代りにちゃあんと
奴の真価を確かめられる奴を選び出しておいたんじゃ。
…のお、緒方くん、フオッ、フォ、フォ…』
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