日記 186 - 190


(186)
 「進藤をどうしたって?」
アキラの顔色は蒼く、まるで能面のように無表情だった。その剣呑さに、当事者の和谷よりも、
部外者である伊角の方が慌てた。
 「ま、待ってくれ……!」
真っ直ぐに和谷の方へ向かってくるアキラの前を伊角が遮った。
 アキラは足を止め、じろりと伊角を睨んだ。切れ上がった眦が、その怒りの凄まじさを表して
いる。
「和谷はその………」
何を言おうとしているのか自分でもわからない。ただ、アキラを止めなければ――――その
気持ちだけで、二人の間に割って入ってしまった。
 アキラにだけは知られたくなかった。こんな形で、こんな事を………。
―――――何とか誤魔化せないだろうか………
だが、アキラの顔を見る限り、それは無理だと一瞬で悟った。
『ゴメン………進藤……』

 「どいてよ、伊角さん………」
背中に和谷の低い声がぶつかった。
「伊角さんは関係ない………ゴメン……」
伊角に謝罪する和谷の声は、静かだった。
 和谷が伊角の身体をそっと脇へ押した。そうして、正面から、アキラと向かい合った。


(187)
 「何で、お前がここにいるんだよ…」
和谷がアキラを睨む。その不貞不貞しい態度を、どこか醒めた気持ちでみていた。
 アキラは、わざわざ和谷に会いに来たのだ。彼に好かれていないのは、百も承知だった。
それでも、ヒカルのことが知りたくて………仲のいい彼なら、何か事情を知っているのでは
ないか………そう思ったのだ。森下研究会のある日は、以前にヒカルに聞いて知っていた。
研究会が終わりそうな時間に、棋院に来て和谷を捕まえようと思った。
 一階で、エレベーターから降りてきた研究会の面々を見て、慌ててそれに飛び乗った。
まだ、対局室にいるはずだ。早くしないと帰ってしまう。こんなにエレベーターが遅く感じたのは
初めてだった。
 対局室に灯りがともっているのを見て、安堵の息を吐いた。が、入ろうとしたとき、中から
話し声が聞こえてきた。
―――――他の人と一緒か………
どうしようかと悩んだ耳に、飛び込んできたあの言葉………!
 目の前が暗くなった。心臓が苦しい。頭の中がガンガンした。
―――――進藤を………ヤッた………?
ヤッたってどういうことだ?まさか――――――!?聞き間違いなんかじゃない。
 全身から、血が引いていくのがわかった。怒りが臨界点を一気に飛び越えた。それと同時に、
理性や感情もスッとどこかへいって消えてしまった。

「そんなことどうでもいいだろ……それより、進藤に何をした………」
「お前が聞いたとおりだよ…」
口元に嘲笑を張り付かせた偽悪的なその態度は、いっそ潔いとすら思える。
「和谷!やめろ!」
伊角が和谷を制するが、彼はそれを無視した。
「オマエら、いっつもやってるんだろ?アレくらいどうってことネエじゃんか。」
「な………ボクと進藤は……」
否定するべきかどうか一瞬迷った。自分は他人にどう思われていようとかまわないが、
ヒカルが傷ついたり、非難されたりするのだけは避けたい。
「隠す必要ネエだろ!人前で堂々とキスしてるくらいなんだからさ!」
「………キス……?」
「見たんだぜ…喫茶店でオマエが進藤にキスしているところ……」
―――――――――
アキラは呆然と和谷を見つめた。


(188)
 確かに、夏の初めにそんなことがあった。二人で過ごす予定が変更になった知ったヒカルが
寂しそうにしていて可哀想で………それからそのションボリとした姿があまりに可愛くて
つい、キスをしてしまった。アレを見られていた!?
―――――気をつけたつもりだったのに………
「オレと目があったのに、オマエ全然気にしていなかったよな?」
目があったと彼は言うが、自分には思い当たらない。
「それとも、オレなんか見えていなかった?」
図星を指されて、カッと頬が熱くなった。。アキラは黙って和谷を睨んだ。
「………やっぱりね。オマエは進藤しか見えてネエモンな。オレ達なんかその他大勢で
 いちいち気にする必要もないんだろ?」

 イライラする。彼はいったい何が言いたいんだ。それと和谷が進藤にした仕打ちといったい
どんな関係があるって言うんだ。
「それが何だと言うんだ。進藤とどういう関係があるって?」
苛立ちが口調に表れている。自分でも押さえることが出来ない。
「ムカつくんだよ!オマエ!」
和谷が放った一言に、目の前が紅く染まった。


(189)
 ムカつく………?だから…だから、ヒカルに酷いことをしたと言うのか………!?アキラが
気に入らないから、ヒカルに怒りをぶつけたと彼はそう言ったのか?聞き間違えではないだろうか………。
拳を強く握り締めた。掌に爪が食い込んでいるが、まるで痛みを感じない。それより、ずっと
胸が痛い。頭がズキズキと疼く。血流が鼓膜を叩いているような錯覚を起こした。
 「そんな理由で………」
唇を噛みしめた。迫り上がってくる吐き気を堪えた。
「ボクが嫌いなら…ボクに怒りをぶつければいい………」
自分でもゾッとするような声だ。憎しみだけで作り上げられたような地を這うような声。
「進藤は関係ない………ボクに対する当て付けで、彼を傷つけるなんて………」
「当て付けなんかじゃネエ!」
悲痛な叫びに、遮られた。
 アキラは驚いて和谷を見つめた。先程までの彼とはまるで別人の様だ。シャツの胸元を掴み、
眉を寄せ、口元を歪ませている。ゼエゼエと苦しげな呼吸がアキラの耳にまで聞こえてきそうだ。
「………当て付けじゃネエ……オレはただ………」
和谷はそこで、一呼吸置いた。
「進藤が好きだっただけだ………!」

 涙の滲んだ瞳でアキラを睨み付けてくる。
「何でだよ……何でいつもオマエなんだ……」
「オマエは何でも持っているじゃないか!碁の才能だって!!」
「その上、進藤まで………何でだよ!進藤………進藤……!」
―――――勝手なことを言うな!
そう、怒鳴ってやりたい!殺したいくらい彼が憎い…………!
 だけど、魂から絞り出すような……それくらい切なげな「進藤」という響きが悲しかった。
何故だ。怒っているのは自分だ。そして、辛い目にあわされたのはヒカルで…………それなのに、
和谷をほんの少し可哀想だと思ってしまった。彼の姿を見ていることが辛かった。

 ヒカルが欲しくて欲しくて、足掻いていたときの自分を思い出してしまったから………。

 アキラはしばらく目を閉じて、和谷の慟哭を聞いていた。やがて、唇をキュッと引き結んだ。
「ボクのことはどうでもいい……憎もうと恨もうと………」
でも――――
「進藤にしたことは許さない……絶対に…たとえ、彼が許したとしても………!」
「キミがボクを憎いように、ボクもキミを憎む……」
と、告げてその場を後にした。


(190)
 アキラは伊角と和谷を残して、去っていった。結局、自分は何も出来なかった。ただ、固唾を呑んで、
成り行きを見守ることしか出来なかった。アキラが和谷を、あるいは和谷がアキラに乱暴な
真似をしようとしたときは無論止めるつもりだった。
 だが、どちらも手を出さなかった。和谷はわかる。彼はアキラに殴られることを覚悟していた。
そうでなければ、あんな言い方するわけがない。けれど、アキラは…………今にも和谷を
喰い殺しそうなくらい凶暴な気配を全身から立ち上らせていた。それなのに………。

 「…………アイツにとって…オレは殴る価値もない人間だってことだよな………」
和谷が畳の上に、座り込んだままポツリと呟いた。
「………でも……進藤のこと言ったときのアイツの顔……それだけでも胸がスッとしたぜ……」
「……!!和谷!」
本心ではない。わかっている。わかっているけど、そんな言い方は………!
「………進藤に対する侮辱だ!」
 和谷は伊角の顔をボンヤリと見つめ、それから悲しげに目を伏せ俯いた。
「…………………ゴメン………」
誰に対する謝罪なのか……自分へか?それとも、ヒカルに?それとも………聞こえないほど
小さな声だった。



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