敗着-透硅砂- 19 - 20
(19)
「あ、こんにちは。今日も緒方さんが一番乗りですか」
和室の障子を開けた芦原が、開口一番に言った。
「ああ…」
曖昧に笑って答える。アキラと顔を合わせないためだとは、よもや言えなかった。
「最近は緒方さんがずっと一番で、オレ肩身狭いですよ」
そう言いながら、笑って下座に座る。
「今日はスーツじゃないですね」
「いつも着てるわけじゃないからな」
「そうですね」と言って周囲の少しずれて置かれている座布団をきちんと並べ直す。
「暑くないですか?障子、開けましょうか?」
「そうだな」
立って芦原と一緒に障子を開け放つと、目の前に日本庭園が現れた。
座布団を持ってきて、廊下に芦原と共に座った。
スッキリと剪定された松の木の葉が陽光に青々と光り、池の中を鯉が悠々と行き交っているのが見える。
「暑くなりましたね。オレ、もう扇風機出しましたよ」
芦原がポロシャツの一番上のボタンを外しながら言った。
(こんな日だったな…。写真を撮ったのは…)
こいつがカメラを買ったというので、アキラと二人で撮ってもらった。
芦原の方をちらりと見た。
少し汗ばんだ気色で、同じように庭を眺めている。
杜若の葉が艶々と光って池に映っている。
池を取り囲む庭石の後ろにある植え込みに目がいった。紅葉と楓の間に配されている、この庭では控えめな植木だ。
無邪気に屈託なくはしゃいでいたアキラを思い出した。
(アキラ…。昔はよく笑ったな……)
鯉の背鰭が一瞬水面に翻り、キラリと水が乱反射した。
その眩しさに思わず目をつむった。そして再び目を開けると、水面はただゆらゆらと凪いでいた。
(もうすぐだ…。もうすぐ、返してやれるだろう――。)
鯉の体色の赤と白と金が、水面下で歪んで揺れていた。
(20)
「ねー、センセ。次はどこ行くの?」
後ろから進藤が突っついてくる。麻のジャケットの袖が、背中を引っ張られた拍子にピンとつった。
結局、通夜の日から何も言えないでいた。
たった一言か二言だ。それが言い出せないでいた。
部屋では言えなかった。
”した後で言っても説得力がない”と言われたことが過去に何度かあった。
やはり部屋で言い渡すのは気がひけて、外へ進藤を連れ出すことにした。
「スパゲティもいいけどさー、オレやっぱり…」
丘の上に建っているレストランから、駐車場へ降りてくる階段で進藤がもぞもぞと言っている。
ラーメンやファーストフードは御免だった。
「進藤、あのな…」
振り返って、思わず息をのんだ。
階段の段差のせいで、進藤の顔が自分の顔と同じ高さにあった。
色素の薄い丸い瞳が陽光の中でじっとこちらを見つめている。
階段の脇の片側にだけ植えられた並木の影と、日向の境目で顔色が分かれていた。
少し風が吹いているのか、前髪が僅かに揺れてその髪が目に入りそうだった。白いコンクリートの階段に落ちた並木の影が、そよそよと揺れている。
鼻の頭には汗が少し滲んでいた。
「なに――?」
スパゲティのソースの色が薄く残っている紅い唇が動いた。
立っている時に進藤の顔が目の前にあるのは初めてだった。
顔に落とされた、葉と日光とでまだらになった木の影が揺れている。
その度に薄い色の目の瞳孔が、僅かに閉じたり開いたりした。
「いや…何でもない…」
前を向くと、車のキーを取り出した。
(何をしているんだ…オレは……)
キーを握り締めると早足で階段を降りきって車に向かう。
結局、その日も言い出せないままで終った。
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