身代わり 19 - 21
(19)
夜明けまえの部屋は暗く、そして冷え冷えとしている。
寒さが堪えるようになってきたな、と行洋は思った。もう四月だというのに。
確実に身体が衰えてきているのだと思い知らされる。
息を吐くと、行洋は碁盤に視線を戻した。
昨夜アキラと打った碁だ。
いつもとかなり違っていた。良い意味でも悪い意味でも、強引なところが強く出た。
その理由はわかっている。
(進藤くんとの対局は、今日か……)
アキラの真剣な表情を思い浮かべる。
打っている最中も、打ち終わった後も、アキラは必死だった。
いつもなら検討をし、助言を与えるのだが、今回はなにも言わなかった。
なにを言っても、今のアキラには何の役にも立たない気がしたのだ。
進藤ヒカルを前にしたとき、アキラは自分の言葉など必要としないだろう。
(ずっとアキラはあの少年のことしか考えていない)
あんなふうにただ一人を追い求めるアキラに、行洋は畏怖さえ感じていた。
それは自分にはないものだった。
もちろん負けたくない、乗り越えたいと思った相手は数多くいた。しかしそれは、アキラの
持つものとは違うものだ。
ここまで、最善の一手を求めて歩んできた。しかしそれは一人でだった。
その時その時に相手はいても、本当の意味で共に歩んできた者はいなかった。
(真の意味で、己を奮い立たせる存在というものに、私は出会えなかった)
だがアキラは出会えた。
もう自分のまえには、そんな相手など現れることはないだろう。
そう考えると、これから先の人生がひどく無味なものに思えてきてしまう。
(20)
「いかんな、こんなことでは」
弱気になってはいけないと自分を叱咤する。
明日に十段戦第三局を控えているのだ。気持ちを萎えさせてはならない。
深呼吸をし、気持ちを落ちつける。外は明るくなりはじめていた。
結局、一晩明かしてしまった。そのせいか頭が重い。
廊下のきしむ音が聞こえてきて、行洋は盤面を崩した。
「お父さん、おはようございます」
「早いな」
「はい、目が冴えてしまって……」
言いながら対面にアキラは正座する。
その表情は今までにないくらい引き締まっていた。
特別な相手との対局を待ち望んでいる顔だ。
息子がどんなに進藤ヒカルと打ちたいと思っていたかを、行洋は知っている。
それが今日、叶えられるのだ。
うらやましい、と心の底から思った。
そしてそう思った瞬間、身体中の力が抜け出ていくような心地がした。
息が苦しい。
周りが急速に色褪せはじめる。
代わりにくっきりと浮かんできたのは、せまい肩幅、細い腕、小さな手――――
『塔矢先生……』
幼い声が自分の名を呼ぶ。明るい黄色の前髪が揺れている。
行洋は手を伸ばそうとして、身体がかたむくのを感じた。
遠くからアキラの叫ぶ声が聞こえた。
(21)
病室に近づくにつれ、足取りが重くなってくる。母がそんな自分を早くと急かす。
だがどうしても速度を速めることができなかった。手のなかの荷物が重い。
アキラは自己嫌悪に陥っていた。
父が倒れたあの日、アキラがまず思ったのはヒカルとの対局のことだった。
打てない、と悟ったあの瞬間、アキラは父が恨めしくなった。
なぜこんな日に倒れるのだと。ようやくヒカルとの対局が叶えられる、その日に。
そしてそう思った自分が信じられなかった。
これが倒れた父を思う息子の心情かと、疑いたくなる。
「アキラさん、こっちよ」
気付くとアキラはちがう方向に行こうとしていた。慌てて母の後を追いかける。
病室はせまく感じられた。もっと広い部屋にしてもらえばいいのにと思う。
容態が落ち着いたと聞くと、ひっきりなしに見舞客がやってきて今日は大変だった。
一段落つくと、緒方にまかせて二人は家に入院に必要なものを取りに行ったのだ。
明子が入ってくると、緒方はすぐに頭を下げてあいさつした。
「主人の面倒を頼んでごめんなさいね。だれか、いらしたかしら」
「棋院の記者が来ましたけど、すぐに帰りましたよ」
「心配してくださるのはうれしいのだけれど、こうたくさん来られますとねぇ……」
最後まで言わないが、緒方はその内心を察した。ただでさえ夫がいきなり倒れて大変なのに、
多くの見舞客の相手までしなくてはいけないのは、正直とても気疲れがするだろう。
「あら、わたしったら。ごめんなさい」
少し愚痴を言ってしまったことを恥じたようだ。
「いいえ、お気になさらずに。少し休まれたらいかがですか。先生のお相手も、これがして
くれるでしょうし」
そう言って緒方はノートパソコンを指差した。
その画面のなかには碁盤と碁石があった。
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