落日 19 - 21


(19)
はっと我に返って、伊角は頭を振った。
今、自分は何を考えていた?
耳元で心臓の音が激しく響く。背を冷たい汗が流れ落ちる。息が苦しい。
彼の声が、頭の奥でこだまする。
「許して…伊角さん……」
違う、なぜ、なぜ彼が自分に許しを請うのだ。
そんな事はない!そんな筈はない!!
違う。
あれは俺じゃない。彼をあのようにしたいなどと思った事などない。
彼を傷つけたいなどと、傷付いた彼を更に痛めつけたいなどと、思った事などない。
違う。
彼を憎んでなどいない。
愛しているんだ。守ってやりたいんだ。
俺は、彼を守りたいんだ。
彼がこれ以上傷つく事のないように、彼を脅かす全てから、守ってやりたいんだ。


(20)
目を落とすと、ヒカルが掛け布にくるまってすうすうと寝息を立てている。
震える手を伸ばしてそっと髪を梳くと、
「んん……」
と、小さな声を漏らして、布をきゅっと握り締めて横向きに丸くなった。頑是無い無垢な幼子の
ようなその仕草に、胸が痛む。
絶対に違う。あのような夢に、白昼夢に、何の意味もない。あれは俺の願望などではない。
俺はおまえを傷つけたりしない。絶対にそんな事はしない。
おまえは俺が守るから、守ってやるから、だから。
彼の顔を見つめているうちに、ぽたりとしずくが一粒、彼の頬に落ちた。
慌てて覗き込んでいた顔を離し、目元を拭う。
そして、ぶるりと肌寒さに身を震わせた。
夜闇が迫っている。秋の夜はそろそろ薄ら寒い。火桶に火をもらってこようと伊角が部屋を出よう
とした時、足が何かを蹴転がした。
「あ……」
それは和谷の持ってきた手籠だった。
布からこぼれたかけらを拾い上げて、薄闇の中で目元に近づけ、くん、と匂いをかぐ。
糖蜜の塊――いや、これは違う。
六角の格子のそのかけらを口に含むと、しゃり、と口の中でこぼれ、馥郁たる花の香りと蜜の味
が口内に広がった。
甘い。この珍しい糖菓子をどのような苦労をして手に入れ、そしてどのような弾む気持ちでここに
持ってきたのか。彼の気持ちが手にとるようにわかる気がした。
そして彼が何を目にして、そして去って行ったのか。
彼の心を思うと、まるで己の事のように胸が痛む。
けれど。
それでも譲れない事はある。
譲りはしない。


(21)
そっと元通りに籠に詰め直し、先程のように蹴倒される事のないように、部屋の隅に置かれた御台
の上に籠ごと置く。
明日になって彼が目覚めたら食べさせてやろう。きっと喜ぶだろう。「甘い」「美味しい」といって笑っ
てくれるだろう。
そして自分も今度は何か彼を喜ばせるようなものを持ってこよう。
あどけない寝顔に思わず頬が緩む。こんなに愛しいものがいただろうか。こんなに誰かを愛しいと
思った事があっただろうか。彼の顔を見つめ、そっと髪をなでていると、眠っているはずの彼の手が
伸びて自分の手を捕らえる。
どうした、と呼びかけようとすると、彼がぼんやりと目を開けてこちらを見た。
その視線が何かを探すように宙を彷徨う。虚ろな眼差しに胸がきりきりと痛むのを感じる。衝動の
ままに彼の身体を抱き寄せると、ああ、と、彼が胸の中で小さな息を漏らす。彼の目からこぼれる
涙が胸を濡らす。ぎゅっと細い身体を抱きしめてやると、震える身体は小さく誰かの名を呼ぶ。
目をきつくつぶり、奥歯を噛み締めながら、それでも彼を抱く腕に力を込めた。
いいんだ。それでもいい。たとえ今は他の男の名を呼んでいようとも。
そう、彼はもういないのだから。彼がこの少年を守ってやる事はもうできないのだから。
だから。
だから、と、伊角は自分に言い聞かせるように言う。
「何も、おまえは何も思い煩らう事はない。俺が守ってやる。
誰にも、おまえを傷つけさせたりしない。
おまえを守れるのは俺だ。俺だけだ。だから、」
だから、他の男になどその身体を預けるな。
他の男におまえを抱かせるな。
おまえは俺のものだ。俺だけのものだ。



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