身代わり 19 - 23


(19)
夜明けまえの部屋は暗く、そして冷え冷えとしている。
寒さが堪えるようになってきたな、と行洋は思った。もう四月だというのに。
確実に身体が衰えてきているのだと思い知らされる。
息を吐くと、行洋は碁盤に視線を戻した。
昨夜アキラと打った碁だ。
いつもとかなり違っていた。良い意味でも悪い意味でも、強引なところが強く出た。
その理由はわかっている。
(進藤くんとの対局は、今日か……)
アキラの真剣な表情を思い浮かべる。
打っている最中も、打ち終わった後も、アキラは必死だった。
いつもなら検討をし、助言を与えるのだが、今回はなにも言わなかった。
なにを言っても、今のアキラには何の役にも立たない気がしたのだ。
進藤ヒカルを前にしたとき、アキラは自分の言葉など必要としないだろう。
(ずっとアキラはあの少年のことしか考えていない)
あんなふうにただ一人を追い求めるアキラに、行洋は畏怖さえ感じていた。
それは自分にはないものだった。
もちろん負けたくない、乗り越えたいと思った相手は数多くいた。しかしそれは、アキラの
持つものとは違うものだ。
ここまで、最善の一手を求めて歩んできた。しかしそれは一人でだった。
その時その時に相手はいても、本当の意味で共に歩んできた者はいなかった。
(真の意味で、己を奮い立たせる存在というものに、私は出会えなかった)
だがアキラは出会えた。
もう自分のまえには、そんな相手など現れることはないだろう。
そう考えると、これから先の人生がひどく無味なものに思えてきてしまう。


(20)
「いかんな、こんなことでは」
弱気になってはいけないと自分を叱咤する。
明日に十段戦第三局を控えているのだ。気持ちを萎えさせてはならない。
深呼吸をし、気持ちを落ちつける。外は明るくなりはじめていた。
結局、一晩明かしてしまった。そのせいか頭が重い。
廊下のきしむ音が聞こえてきて、行洋は盤面を崩した。
「お父さん、おはようございます」
「早いな」
「はい、目が冴えてしまって……」
言いながら対面にアキラは正座する。
その表情は今までにないくらい引き締まっていた。
特別な相手との対局を待ち望んでいる顔だ。
息子がどんなに進藤ヒカルと打ちたいと思っていたかを、行洋は知っている。
それが今日、叶えられるのだ。
うらやましい、と心の底から思った。
そしてそう思った瞬間、身体中の力が抜け出ていくような心地がした。
息が苦しい。
周りが急速に色褪せはじめる。
代わりにくっきりと浮かんできたのは、せまい肩幅、細い腕、小さな手――――
『塔矢先生……』
幼い声が自分の名を呼ぶ。明るい黄色の前髪が揺れている。
行洋は手を伸ばそうとして、身体がかたむくのを感じた。
遠くからアキラの叫ぶ声が聞こえた。


(21)
病室に近づくにつれ、足取りが重くなってくる。母がそんな自分を早くと急かす。
だがどうしても速度を速めることができなかった。手のなかの荷物が重い。
アキラは自己嫌悪に陥っていた。
父が倒れたあの日、アキラがまず思ったのはヒカルとの対局のことだった。
打てない、と悟ったあの瞬間、アキラは父が恨めしくなった。
なぜこんな日に倒れるのだと。ようやくヒカルとの対局が叶えられる、その日に。
そしてそう思った自分が信じられなかった。
これが倒れた父を思う息子の心情かと、疑いたくなる。
「アキラさん、こっちよ」
気付くとアキラはちがう方向に行こうとしていた。慌てて母の後を追いかける。
病室はせまく感じられた。もっと広い部屋にしてもらえばいいのにと思う。
容態が落ち着いたと聞くと、ひっきりなしに見舞客がやってきて今日は大変だった。
一段落つくと、緒方にまかせて二人は家に入院に必要なものを取りに行ったのだ。
明子が入ってくると、緒方はすぐに頭を下げてあいさつした。
「主人の面倒を頼んでごめんなさいね。だれか、いらしたかしら」
「棋院の記者が来ましたけど、すぐに帰りましたよ」
「心配してくださるのはうれしいのだけれど、こうたくさん来られますとねぇ……」
最後まで言わないが、緒方はその内心を察した。ただでさえ夫がいきなり倒れて大変なのに、
多くの見舞客の相手までしなくてはいけないのは、正直とても気疲れがするだろう。
「あら、わたしったら。ごめんなさい」
少し愚痴を言ってしまったことを恥じたようだ。
「いいえ、お気になさらずに。少し休まれたらいかがですか。先生のお相手も、これがして
くれるでしょうし」
そう言って緒方はノートパソコンを指差した。
その画面のなかには碁盤と碁石があった。


(22)
入院後、行洋と面会した緒方は愕然とした。
なぜなら塔矢行洋独特の、覇気とも言える雰囲気がなくなっていたからだ。
緒方はそれにひどく慌てた。こんな師匠は見ていたくなかった。
元気にする一番の薬は、やはり碁であろう。
しかし緒方が付きっきりで打つということなどできない。何よりも身体への負担が大きい。
そこでインターネット囲碁を思いついたのだ。これなら無理せずできる。
しかし緒方は少なからずがっかりした。行洋があまり興味を示さなかったからだ。
「……やはり碁は碁盤で打つものだな……」
そうつぶやいた声には、力が無かった。
囲碁界の覇者には見えなかった。
「アキラさん、ほら見てごらんなさい。すごいわね、これで囲碁ができるのですって。世の
なか便利になったわねぇ。どうするのです、緒方さん」
母が無邪気にはしゃいで緒方の説明を聞いている。
アキラはパソコンに近づいて、その画面をのぞきこんだ。
「ネット碁……」
その単語はアキラに否応なく一つの名前を思い出させる。
(……sai……)
自分との対局を最後に姿を消した、インターネットのなかの覇者。
みながその正体を知りたがった。だが結局は闇のなかのままだ。
しかしアキラだけは、ある人物を思い浮かべていた。
もう考えたくないのに。
アキラが物思いに沈んでいくのを緒方は横目で見ていた。
なにを考えているかは聞かずともわかる。自分だって同じだからだ。


(23)
薬品のにおいが鼻につく。頭の感覚が麻痺されていくような気がする。
正気を保っているのが難しい。ふとした瞬間、叫びだしたい衝動に駆られる自分がいる。
行洋は崩れそうになる理性と戦っていた。
だがそのことに誰も気付かない。
妻の明子も、息子のアキラも、弟子の緒方も。
病室で目覚めてから行洋は、自分が死んでしまったような気がしていた。
なにをする気にもならないのだ。
それを最初に感じたのは十段戦第三局の日、目が覚めて時計を見たときだった。
もし対局地が行ける場所でも、自分は行かなかっただろう。
そのくらい気力が自分のなかのどこを探してもなかった。
周囲は色あせたまま、なんの刺激も与えてはくれない。すべてが同じ色に見える。
だがちらりと明るい影が脳裏をよぎった。
行洋はふと倒れる瞬間のことを思い出した。誰かが自分を――――
「……塔矢先生」
ぎくりとして行洋は顔を上げた。広瀬が自分を見ていた。
そうだ、今日は碁会所の面々が見舞いにきてくれているのだ。
行洋は少しうつむき、笑みを浮かべた。
「広瀬さんにまで御心配かけてしまって……」
相づちを打ちながら、本心では早く出て行ってもらいたかった。
そう思う自分が嫌だった。
(病とは気を腐らせるものだな)
乾いた笑いを漏らしたとき、小さなノックの音が聞こえた。
「こ……こんにちは」
遠慮がちに入ってきた少年を見て、行洋は息をつまらせそうになった。
夢のなかにいた人物が現れた気がした。



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