黎明 3章
(19)
甘い夢は奪われてしまった。
けれど夢の代償として身に引き受けた寒さは残されたままだった。
日毎、夜毎、吹き荒れる嵐のような飢餓感が彼を襲い、嵐の去った後はただ空虚な闇の中
に彼は取り残された。誰もいない、何もない、自らの呼吸の音さえ聞こえない闇の中で、
虚無が、内から外から、彼を喰い尽くそうと襲い掛かった。いやだ、やめろ、と叫んでも、
発せられた声は闇の中に吸い込まれ、彼の耳に届くことはなかった。何もない空虚な闇だ
けが彼の感じられる全てであった。真空の闇の中で何かを感じて見上げると、鋭い光が、
堅牢に紡ぎ上げた筈の繭を真っ直ぐに切り裂いて己を容赦ない光の元へと晒しだそうとす
る。その鋭い光は暗い虚無以上の恐怖だった。
それでも時折、嵐の合間にふと柔らかな光を感じる。その光に目を凝らすと、白く紗のか
かった輪郭も明暗も全ては不明瞭な視界の向こうに、長い黒い髪が、優しげな暖かな眼差
しが、朧に見える気がする。夢の中で次第に明確になってゆくそれをヒカルは嬉しいと思
いながら、一方で見たくはないと、そのまぼろしを遠くへ押しやって欲しいと願う。背反
する願望にヒカルの心は引き裂かれる。
けれどヒカルの望みとは関わりなく、薄い布が一枚一枚剥がされていくように、霞んだ風
景は日毎に少しずつ明瞭になっていく。そこから目をそらすように、彼は眠りの中に逃れ
ようとした。けれど眠りは彼に安らぎをもたらしはせず、逆に闇が彼を捕えた。それに抗
おうと、そこから逃れようと闇雲に何かを探す手の先に届いた身体に、ただ、しがみつい
た。その肌は今まで知るどんな人よりも熱かった。燃える火のようだと思った。触れるだ
けで焼き尽くされてしまいそうに感じた。燃えるように熱い身体が恋しくて、けれど恐ろ
しくて、それでも他に縋るものなど何もないから、彼はその熱い身体にしがみついた。
その熱は寒さに震える彼の体には心地よかった。だからもっとその熱が欲しくて、煽るよ
うに己の身体を擦り付けた。そうされて益々熱く燃え上がるその身体は、けれど彼がもっ
とも望む熱を彼に与える事は決してなかった。どれ程脅しても、縋っても、焦れて泣いて
も彼の望みは聞き入れられることはなく、だから彼の飢えも満たされる事はなかった。
(20)
香を求める嵐に翻弄される少年を、彼は屋敷の奥の部屋へと移した。
もとより周りの気配には人一倍敏感ではあったが、絶えず隣室の少年の気配をうかがう彼
の神経は休まることはなくなった。
彼の喉から細い悲鳴が漏れ出す。それが始まりの合図だった。
悲鳴は絶叫へと変じ、彼の身体は何かに抗うように暴れる。どこへ、というあてがあって
ではなく、ただここから逃れ出ようとする彼の身体を必死になって押さえつけた。逃げ出
そうと暴れる彼は、この細い身体のどこにそんな力が残されていたのだろうと驚嘆するほ
どだった。
そうして自分を全身で拒否しておきながら、最後には寒さに震え、人肌を求めて縋り付く。
自分が彼に与えられるのはそれだけだった。それでも彼には足りないという事はわかって
いた。必死の力でしがみつく細い身体を愛しいと思う。愛しさに、彼を抱く腕に力を込め
る。けれど、欲しいものはそんなものではないと、腕の中の少年が焦れて涙をこぼす。
自分を認めないくせに、その熱だけを求める彼が、愛しいのか憎いのかわからなくなる。
だから彼の願いを冷たく拒み続けながらも、裸の胸に彼を抱きしめた。
そんな己の矛盾を嘲るような声が己の内から聞こえる。
何に躊躇っているんだ、と、その声は己をそそのかす。
さっさと抱いてしまえ、何を愚図愚図ともったいぶっているのかと。
嫌だ、と、彼は己の内の声に返す。
嫌だ。それではあの屋敷で意識も朧な彼を抱いた男たちと同じではないか。
同じで何が悪い。
違う。僕は彼らとは違う。ただ彼の身体を思いのままにしたい訳ではない。
嘘をつくな。おまえはそうしたくてたまらないくせに。
違う。そうじゃない。
違うって?それじゃおまえのその昂ぶってるモノは何だ。
いいか。よく考えろ。欲しがってるのはあいつの方だ。あいつがおまえを欲していて、お
まえもあいつを欲しているのなら、何を躊躇うことがある?
何を、だって?そんな事はわからない。でも、それでも嫌なんだ。欲しいものはこんなも
のではないんだ。
(21)
「ではそなたは彼に何を与えられるというのです?」
「そなたの望むものは何です?」
あの屋敷で、問い掛けられた問いが甦る。
僕が望むもの。
彼の笑顔。日の光のように明るく力強く健やかな近衛光。
僕が恋した彼は、僕が焦がれた彼は、そういった存在だ。
こんな抜け殻のような彼を手にしたからといって、それが何になる。
そんなものが欲しい訳じゃない。
随分と強欲な奴だ、と、闇の声が嘲るように囁く。
何もかもを望むままに、その通りでなければ欲しくはないとでも言うのか。
何様のつもりだ。
それの何処が悪い?彼の笑顔がもう一度見たいと、思うことのどこが悪い?
悪いともよ。あいつがおまえのために笑わなきゃならない理由なんてどこにもないだろ。
それがなんだ。強欲だろうとなんだろうと、それでも僕はそれが欲しいんだ。
違うね。おまえは、こいつがおまえを見ないから、その嫌がらせにこいつの望むものを与
えないだけだ。
違わぬと言うのならば、つまらぬ意地など張っていないで、さっさと抱いてやれ。
闇の声がそそのかす。
己の内の声に、必死に耳を塞ぎながら、彼を抱く腕に力を込めた。
望んだものは、熱い人肌と甘い夢。
それは確かに彼の望んだものだったのかもしれない、と思う。
他ならぬ自分がまた、それを切望するのだから。
そうして僕は彼から、例えまやかしとはいえ夢と安寧を奪っておきながら、代わりに自分
が彼に与えられるものなど何もないのだ。彼がどんなに望んでも、己自身を彼に与えてや
ろうなどとは思わないのだ。
(22)
心の内に隠した欲望を告げる声に耳を塞いで、また彼は夜の闇に彷徨い出る。
己の熱を鎮めるように冷水を頭から全身に浴びせかけ、それから悲痛な面持ちで天を仰ぎ
見ると、ざあっと風が吹き荒れ、草木を揺らし、彼の身を震わせた。月のない夜の空を叢
雲が流れて星を遮り、風がざわざわと木々を揺らした。
闇は深い。この先、朝が訪れる事など信じられぬほどに、この世は暗い。
けれど夜はいつかは明けるとわかっているから、夜の闇には耐えられる。だが人の抱えた
闇は、明ける事はあるのだろうか。彼を、彼の堕ちた闇からまた日の光の下へと連れ出す
事ができるのだろうか。そして自分は、自分の抱えたこの闇に飲み込まれずにいられるの
だろうか。
(23)
己の内の闇に気付いたとき、経験浅く年若い陰陽師は、初めて闇を恐れた。
かつて彼の目には世界は常に明瞭で見通しがよく、全ては手にとるように明確だった。恐
れるものなど何もないと、思っていた。
ひとびとは闇に跋扈する正体の知れぬ妖しを、ひとを呪い祟りなす神々を、この世の無念
の凝り固まった鬼を、恐れた。だが人の目には見えなくとも彼の眼にはあらわに見える鬼
や妖しは、彼にとっては慎重に処すべきものであり、決して侮りはしなかったものの、ま
た、恐るべきものではなかった。
また、鬼や妖しなどよりもひとの方が恐ろしいと、ひとの心の闇の方が恐ろしいと言うひ
ともいた。確かに、ひとはそれぞれ心の中に闇を抱えている。けれどそれも彼にとっては
怖れるべきものではなかった。ひとの心は容易く闇に侵食され、その闇に魔が宿り、更に
その闇が凝るとオニとなる。けれどそれを哀れとこそ思え、恐ろしいと思ったことは無か
った。
けれど今、自らの内に黒々と沈む底なし沼のような闇に気付いてしまって、己の中のその
闇を、恐ろしいと、彼は思ってしまった。昼でさえ光の届かぬ深い森の奥の、夜の闇より
も尚深い、闇の暗さを、その深さを、己の中のその闇を、若き陰陽師、賀茂明は初めて怖
れた。己の中の闇に気付いて、それまで明瞭に見通せた条理が突然不条理と化してしまっ
たかのような不安に、彼は怯えた。
そして、怖れるものなど何もないと思っていた己の浅薄さを、彼は嘲った。
風は吹き荒れ、雲を走らせ、黒々と繁る木々の梢を、名付け得ぬ我が身の闇をざわめかせる。
夜明けは、暁の時は、まだ遠い。
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