日記 190 - 192
(190)
アキラは伊角と和谷を残して、去っていった。結局、自分は何も出来なかった。ただ、固唾を呑んで、
成り行きを見守ることしか出来なかった。アキラが和谷を、あるいは和谷がアキラに乱暴な
真似をしようとしたときは無論止めるつもりだった。
だが、どちらも手を出さなかった。和谷はわかる。彼はアキラに殴られることを覚悟していた。
そうでなければ、あんな言い方するわけがない。けれど、アキラは…………今にも和谷を
喰い殺しそうなくらい凶暴な気配を全身から立ち上らせていた。それなのに………。
「…………アイツにとって…オレは殴る価値もない人間だってことだよな………」
和谷が畳の上に、座り込んだままポツリと呟いた。
「………でも……進藤のこと言ったときのアイツの顔……それだけでも胸がスッとしたぜ……」
「……!!和谷!」
本心ではない。わかっている。わかっているけど、そんな言い方は………!
「………進藤に対する侮辱だ!」
和谷は伊角の顔をボンヤリと見つめ、それから悲しげに目を伏せ俯いた。
「…………………ゴメン………」
誰に対する謝罪なのか……自分へか?それとも、ヒカルに?それとも………聞こえないほど
小さな声だった。
(191)
電車の中から窓の外を眺めた。もう、景色なんて何も見えやしない。ただ、暗闇の中ネオンや
家々から漏れる灯りが、点在して見えるだけだ。やり場のない怒りを何とか沈めようと、
ただ外を見続けた。
アキラは全てに対して、怒っていた。押さえようとしても下から突き上げるように、
湧き上がってくる。
どうして、和谷を殴らなかったのか?殺してやりたいくらい憎いのに………!緒方にも
伊角にも腹が立つ。事情を知っていて、自分には話してくれなかった。もっと早くわかっていれば………
いや、コレは八つ当たりだ。もし自分が彼らの立場だとして、そんなこと人に言えるだろうか?
それに、今、それを知った自分に何が出来るのかと言えば、何も出来ない。ただ、狼狽えているだけだ。
ヒカルの肩を抱いて、自分の気持ちは変わらないと言ったところで、素直に彼は受け入れないだろう。
ヒカルはアキラを恐れている。それは、アキラに真実を知られたらという恐怖だけではなく、
自分の身に起きたことを思い出すからだろう。
何より自分に腹が立った。ヒカルの傷に気付いてやれず、ただ、自分の感情を押しつけていた。
アキラは全てのことに憤っていた。自分に……和谷に……緒方や伊角に……そして、その
怒りの矛先は、いつの間にかヒカルにも向けられた。
(192)
「どうして、ボクに話してくれなかったんだ………」
アキラはヒカルのモノだし、ヒカルはアキラのモノではないのか?そう思っていたのは
自分だけなのか………?
傷ついたヒカルが頼った先が緒方だということも、アキラを苛立たせる原因の一つだ。
緒方がよくて何故、自分ではダメなのだ。激しい嫉妬が身を焼いた。
ふと、窓ガラスに映る自分と目があった。なんて情けない顔をしているのだろう。アキラを
天国に舞い上がらせるのも、地獄に突き落とすのもヒカル次第だった。ヒカルだけがその力を
持っている。
溜息を吐いて、アキラは、そおっとジャケットの胸元をさすった。その内ポケットには
白い封筒が入っている。差出人の名前はない。だが、宛名書きの癖のある文字をアキラは
よく知っている。
何時もの彼らしくもなく、一文字一文字丁寧に書きつづられたアキラの名前。もう、二日も
前に届いた手紙だ。それなのに、まだ、封は切っていない。アキラは中身を見るのが怖かった。
もし、これがヒカルからの別れの手紙だったら………そう考えるとどうしても、読めなかったのだ。
これを受け取ったときは、ヒカルの気持ちがまるでわからなかった。でも、今は違う。
アキラは、手紙をとりだし、大事そうに表に書かれた文字をなぞった。
「………帰ったら、読んでみよう……」
そして、もし、そこに別離の言葉が書かれていたら、すぐにヒカルの家へ押しかけて、目の前で
破り捨ててやる。そう思った。
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