裏階段 ヒカル編 191 - 195


(191)
体のあちこちからチューブで機器に繋がれた老体は、寝息とも押し潰れた呼吸音とも区別のつかぬ
音を立てて目を閉じたままだった。
寒々しい白い掛け布団に包まれた肉体は薄く、ちっぽけなものだった。
オレを挑発し威嚇したものと同一のものとはとても思えなかった。


「…桑原先生、戻って来るよね」
「戻ってくるさ。三途の川の手前で地獄の門番の鬼ども相手にひとしきり碁を打ち飽きたらな」
「そうだよね」
クスッと、小さく進藤が笑った。
「…緒方先生、結婚しなよ…」
その言葉を最後に静かになり、やがて寝息が聞こえて来た。
このままアクセルを踏み続ければ、彼との終わらない旅に出る事が出来る、
ふとそんな誘惑にかられる。
だがそんな事は出来ない事はよくわかっていた。
もはや進藤と言う存在は、誰かの所有のもとに置くには大き過ぎるのだ。
それはアキラも同じだった。
迷宮から一足先に抜け出したアキラと進藤に、オレも追い付かねばならなかった。


(192)
結局彼は自宅近くに辿り着くまでそのまま熟睡していた。
彼を起こそうとして声を掛けようとし、そのまま彼の顔にこちらの顔を寄せた。
その前髪を、もう一度だけ指で優しく梳いてやりたかった。
頬と唇の柔らかさと温かさを確かめたかった。
だが、それ以上、もう彼には触れなかった。
最後の抱擁をあの男に許さなかった事への、オレの精一杯の詫びであった。


進藤を車を降ろし、逃避行から戻ったオレを待っていたものは、
彼女から妊娠を告げる報告だった。
長い旅の本当の終わりだった。


(193)
当時は立続けに大きなリーグ戦を控えていた事もあり、無事出産を終えて
彼女が納得する程度に体型を取り戻した後の結婚式となった。

その日、都内の教会の、その会場の控え室にオレは立っていた。
ベランダから式場を広く取り巻く中庭が見える。新緑が眩しい。
そこへ勢い良くドアが開き、進藤とアキラが入って来た。
白いタキシード姿のオレを見て2人は互いに顔を見合わせ、吹き出した。
「なんか普段とあまり印象が違わないなあ」
笑いながらそういう進藤も、相変わらず正装のスーツが窮屈そうでしきりに
首元を弄っている。
それでも一時的に相当落としたと思われた体重は身長とともに大きく増やして、
がっしりした年令相応の体格となっていた。
だが愛嬌のある丸い大きな瞳は相変わらずで、笑顔は体格に似合わず幼いままだ。
「ダメだよ、進藤。またネクタイが歪んでる」
すかさずアキラが進藤の襟元を整える。
アキラも進藤に競るように身長を伸ばしていたが、体質と見えて相変わらず
線の細いすらりとした印象を与える。
特徴的だった髪型もそのままで、涼やかで意志の強い印象的な瞳も変わらない。
一度は思いきって髪を進藤に近い位に短くしようとしたらしいが、遠回しに進藤に
反対されたようだった。
いや、むしろ市河嬢や碁会所の常連客らに髪を切る事を強固に反対されたのだ。
かといって具体的にどうこうするというイメージが湧かないまま結局今の状態に
落ち着いてしまっているというところだった。
大抵どちらか1人を見かけると、すぐ傍にもう1人がいる事が多い。
当人らにも周囲のものらにとっても2人のその姿は空気のようにすっかり馴染んでいた。


(194)
そこへ明子夫人が白いレースのショールに包まれた小さな赤ん坊を抱いて入って来た。
「あら、進藤くん、アキラさんもここに居たの?」
「あっ、緒方先生の赤ちゃんだよね?オレ抱っこしたい!」
少しばかり不安そうな表情をした明子夫人からそーっと進藤はショール共それを受け取る。
車椅子で式に出席する桑原の出迎えがあるとして明子夫人はアキラに2,3の言づてをして
部屋を出て行った。

――「髪の長いえらいべっぴんさんな囲碁の精霊とずっと打っておったから、腕は鈍っとらんぞ」
棋院での職員に囲まれての桑原の復帰第一声がそれだった。
「…だそうだ」
偶然棋院の玄関口でその場にアキラと進藤と居合わせたオレがそう言って2人の方を見ると
アキラも、その桑原が言うところの「囲碁の精霊」に心当たりがあるような表情をした。
進藤は嬉しそうに笑っていた。
「…会ったんだ…さすがだな」と呟きながら。


「うわっ、怖いくらい柔らけーっ!!」
小さな生命を慣れない手付きで抱えて進藤がおっかなびっくりな顔をする。
「落としちゃダメだよ、進藤」
「わーってるって。え…と、名前なんだっけ」
「…って字を書いて、…だよ」
アキラが文字を自分の手の平に描くようにして進藤に説明する。だが進藤は
教えられた字面が咄嗟に浮かばない様子だった。
「まあいいや」と言ってその名を何度か呼びかける。
「…色、白いよな、こいつって」
「うん。…目も緒方さんによく似ていて、琥珀色のガラス玉みたいに綺麗だよね」
そんな会話をしながら全身を純白のレースに包まれた小さな生命を交互に
優しい表情で覗き込んでくれる。
オレはそんな彼等の様子を眩しげに見つめていた。
テラスの外の日の光よりも遥かに眩しかった。


(195)
「緒方先生、この子にキスしていい?」
ふいに進藤に問われる。
「…ああ」
進藤がそっと唇を赤ん坊の額に触れさせる。そして自分の頬を相手の頬に触れさせる。
「すげー甘ったるい匂い…ほっぺがすべすべで気持ちいいや」
「進藤、ボクにも抱かせて」
進藤から受け取った生命を抱くと一瞬、アキラがオレを見て、穏やかに微笑んだ。
オレも笑み返す。

彼女が妊娠したという話も、その後にバタバタとオレの結婚式の話が進められて行った中でも
その事で特にアキラと話をする事はなかった。
オレ達の間でそうする必要はもう何もなかった。
後は時が全てを運び去ってくれる、そう祈ったのだ。

そしてアキラも自分の唇を白い小さな頬に軽く触れさせた。
その時だった。

「あっ」
アキラがふいに声をあげたのは、小さな指先がアキラの黒髪を強く握ったためだった。
自分を抱く、自分を覗き込む親ではないその美しい黒髪の持ち主を、
白い部分が青みがかった透き通った瞳で、彼は、じっと見つめていた。

その光景にオレは、何か連鎖的な運命を感じずにはいられなかった。


〈裏階段:終〉



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