平安幻想異聞録-異聞- 191 - 195


(191)
「そう、つんけんするな。父として何かしてやりたいと思うたまでだ」
「貴族の愛情とは、随分都合の良い物のようですね。特にあなた様のような
 大貴族ともなれば。貴族の愛情は甘い蜂の蜜のような物です。見返りに
 毒を持った針に刺されて命を落とす覚悟もしなくてはなりません。私の
 母のように」
行洋が佐為を見た。佐為も行洋を見返した。
「まだ、私を信用していないのか?」
「いいえ、母を愛していたという貴方の言葉を、今の私は信じていますとも。
 私を心に掛けて下さっているということもです。私の母もずっと貴方を愛して
 いました。しかし、それゆえに命を落としました。私が信用していないのは
 行洋殿ではありません。内裏に生きる貴族です」
「そなたも貴族だと思ったがな」
「藤原行洋という男は確かに母を愛していましたが、同じ藤原行洋とい名の貴族は
 その愛を踏み台にした上で捨てました」
「…………」
「貴方のことを許していないわけではありません。私の母はそれで満足だったの
 ですから、そういう愛、そういう生き方もあるのでしょう。ですが…」
佐為は、内裏で最大の権力を持つこの貴族を、恐れげもなく睨みつけた。
「母を哀れと思いながらもああも簡単に捨てて見せた貴方のこと、私や…まして
 数いる検非違使のひとりでしかない近衛ヒカルのことなど、苦もなく利用して
 みせるのでしょう」
「佐為…」
「私には母のような生き方はできません。近衛ヒカルと私の間のことについては、
 口出し無用。此度の近衛ヒカルの任官の件の不正について、そちらでお調べに
 なるのは勝手ですが、かの検非違使の身の上を貴方の政治謀略に利用したり、
 万一にでも彼の身が傷付くようなことがあれば、私は今度こそ貴方を許しません!」
その押さえた口調のなかにも秘められた激しい怒りに、行洋は、むしろ感心した
ように佐為の言葉を聞いた。
「もしそのような事態になったときは、私が知る貴方の過去の行状、そして
 私の母と貴方の関係も、公卿の方々や帝の御前にてすべて白日の下に告白し、
 囲碁指南役も辞去したうえで、ヒカルと供にこの都を出ますっ!」
佐為は行洋の横をすりぬけ、清涼殿を出た。ただの一度も振り返らなかった。


(192)
常なら、帝への囲碁指南の務めのあとは紫宸殿へと出てから、宜陽殿、
春興殿と渡って内裏を出る佐為だったが、この日は反対側、校書殿、安福殿を
渡って内裏を出た。それは、座間達が宜陽殿の方向に去っていくのを
見たからだ。今は彼らと顔を合わせたくはなかった。
途中ではそれぞれの殿に務める女房達が、この珍しい人影に驚きの声を
あげ是非とも言葉を交わそうと、あわよくば囲碁指南のお約束も…と、
渡殿へと出てきたが、佐為の発する深い怒りの波動の色に気付くと、
皆言葉を失い、すぐに波が引くように道を開けた。
内裏から大内裏へと出る。
わき目も振らずに自宅に帰り、内側から閂をかけて、誰も入れないようにする。
日が傾きかけた秋の空は、澄み渡って心地よく遠くまでその蒼穹を広げて
いたが、佐為の目には入らなかった。
自室に引きこもり、心を落ち着けるために碁盤を前に碁石を手にしたが、
目の前にちらつくのは座間に無惨に嬲られるヒカルの想見ばかりで、
冷たい碁石の肌触りさえも、煮えたぎる佐為の腹のうちの温度を下げる
ことはできなかった。
そんな、今なら猛虎さえ素手で取りひしぐのではないかとさえ思われた
その怒りが収まった後、佐為を襲ったのは、深い哀しみだった。
(ヒカルは自分と出会いさえしなけでば、こんな目に遭う事もなかった
 のではないだろうか?)
それを言えばヒカルは「そんなことないよ。おまえと出会えてよかったよ」と
言って笑ってくれるに違いない。


(193)
しかし、自分はずっとそのヒカルの優しさに甘えてきてしまった。
内裏の貴族達の心無い言葉に、心乱れるとき、いつもそうしていたように。
そうやって、自分は出会ってからずっとヒカルに守ってもらっていたのだ。
常に傍らにある彼の存在に、自分が秘すべき感情を抱き始めたのはいつから
だったか――哀しみの淵に沈みながらも、そんな風にヒカルのことに思いを
馳せていると、ふつふつと絶えることない泉のように、愛おしさが
湧き出てくるから不思議だ。
いったい自分のどこにこんな感情が隠れていたのだろうかと思う。
部屋の明かり取りの窓近く、一輪挿しに挿された、菊の花びらが
一枚落ちた。
それは菊の宴のあの日に、ヒカルの冠から盗んできた黄色い小菊の花枝だった。
花は、すでにわずかに俯き始めている。
自分はあの日、この花がしおれるまでに必ず近衛の家に帰れるように
算段すると、ヒカルに約束したのではなかったか。
佐為は立ち上がると、部屋の片隅の棚の中をを探し、久方ぶりに笛をとった。
激しい怒りと哀しみと愛おしさに、散々と乱れる心を落ち着けるために。
日が暮れれば、自分はまた賀茂アキラとともに、蠱毒の壺を探しに出かける。
それまでに、平静を取り戻しておきたかった。
庭に出ると黄昏時の風に尾花が穂をゆらしていた。
佐為は笛に口を付けた。
笛の銘を「青紅葉」という。
秋の紅葉の優雅さはないが、夏の青い紅葉の林を吹き抜ける風にも
似た涼やかな音色に、その笛を作った名工が、その笛に与えた銘であった。


(194)
座間邸に帰り着き、太刀も取り上げられて、自室でぐったりと体を休めていた
ヒカルは、耳を撫でるその風の音に、頭をもたげた。
懐しい音だった。
自分の体の重さも忘れ、ヒカルは庭に飛びだしていた。
侍女があわてて連れ戻そうとヒカルの腕を取ったが、振り払った。
ヒカルはその風の音をよくしっていた。
かの妖怪退治の時にいつも聞いていた旋律だった。
佐為が指示した場所にたどりつき、妖怪の出現を待つ間、じれて落ち着きの
ないヒカルのために佐為がよく奏でてくれた曲だった。
楽曲には疎いヒカルだったが、佐為の笛の音色だけは絶対に間違えない
自信があった。
ヒカルは、笛の音が絶えるまで、じっと庭に立ち尽くしていた。


錦秋の空を渡って、ヒカルに届いたその笛の音が、本当に佐為のものだったのか。
座間邸は二条、佐為の自邸は四条、風の方向さえあえば届くという距離ではない。
だが、その音色は確かにヒカルの耳に残って、頭の中で反響していた。


(195)
くしゃみをひとつして、座間邸に与えられた部屋に戻る。
目の端に、侍女がほっとした顔になるのが見えた。そして同時に慌てたように、
手に濡らした布を持って走ってきた。
思わず何も考えず飛びだしていたヒカルは、裸足のまま庭に降りていたのだ。
「お足を……」
「いい。自分で拭く」
ヒカルは、侍女が持ってきた布を手にとった。
相変わらず、座間はこんなものにまで上等のものを使う。布は真っ白な絹だった。
今、ヒカルが足の泥を拭いているこの布を買うだけの金があれば、普通に
京の町で生活する人々は、どれだけの日数分の食事を購えるんだろう。
溜め息をつく。そんな事でも考えていないと、夜が暮れるのが怖くて
しょうがない自分がいるのは分かっている。
床の方からしんしんと冷えてきた。秋の深まりを感じさせる夜の冷え込み。
部屋の中はいっそう薄暗くなったが、今日はまだ灯明台の火は灯されない。
例の香も持ち込まれない。
時を潰すうち、いよいよ部屋が暗くなり、自分の足元を見るのさえ、
おぼつかなくなってきて、さすがにヒカルも、疑問に思い始めた。
自分の部屋だけではない、座間邸全体が人気が消えたように静かだ。
気がつけば、昨日まであんなに庭で煩く啼いていた虫達さえ、
歌を忘れたように黙りこくっている。
外の様子を確かめようと、部屋の前の渡り廊下にでようとしたヒカルだが、
自分の背後に気配を感じて振り返った。
部屋の奥に、豪奢な十二単衣を身に纏い、暗闇にしらじらと浮かび上がる
ような乳色の肌をした女がひとり立っていた。
ヒカルは慌てて辺りを見た。この部屋の出入り口は、今、自分が寄ろうと
していた渡り廊下だけだ。いったいどこから? 入ってくる気配などなかった。
女が典雅なしぐさで手招きをした。
ヒカルは誘われるように、そちらに一歩を踏みだした。



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