日記 191 - 195
(191)
電車の中から窓の外を眺めた。もう、景色なんて何も見えやしない。ただ、暗闇の中ネオンや
家々から漏れる灯りが、点在して見えるだけだ。やり場のない怒りを何とか沈めようと、
ただ外を見続けた。
アキラは全てに対して、怒っていた。押さえようとしても下から突き上げるように、
湧き上がってくる。
どうして、和谷を殴らなかったのか?殺してやりたいくらい憎いのに………!緒方にも
伊角にも腹が立つ。事情を知っていて、自分には話してくれなかった。もっと早くわかっていれば………
いや、コレは八つ当たりだ。もし自分が彼らの立場だとして、そんなこと人に言えるだろうか?
それに、今、それを知った自分に何が出来るのかと言えば、何も出来ない。ただ、狼狽えているだけだ。
ヒカルの肩を抱いて、自分の気持ちは変わらないと言ったところで、素直に彼は受け入れないだろう。
ヒカルはアキラを恐れている。それは、アキラに真実を知られたらという恐怖だけではなく、
自分の身に起きたことを思い出すからだろう。
何より自分に腹が立った。ヒカルの傷に気付いてやれず、ただ、自分の感情を押しつけていた。
アキラは全てのことに憤っていた。自分に……和谷に……緒方や伊角に……そして、その
怒りの矛先は、いつの間にかヒカルにも向けられた。
(192)
「どうして、ボクに話してくれなかったんだ………」
アキラはヒカルのモノだし、ヒカルはアキラのモノではないのか?そう思っていたのは
自分だけなのか………?
傷ついたヒカルが頼った先が緒方だということも、アキラを苛立たせる原因の一つだ。
緒方がよくて何故、自分ではダメなのだ。激しい嫉妬が身を焼いた。
ふと、窓ガラスに映る自分と目があった。なんて情けない顔をしているのだろう。アキラを
天国に舞い上がらせるのも、地獄に突き落とすのもヒカル次第だった。ヒカルだけがその力を
持っている。
溜息を吐いて、アキラは、そおっとジャケットの胸元をさすった。その内ポケットには
白い封筒が入っている。差出人の名前はない。だが、宛名書きの癖のある文字をアキラは
よく知っている。
何時もの彼らしくもなく、一文字一文字丁寧に書きつづられたアキラの名前。もう、二日も
前に届いた手紙だ。それなのに、まだ、封は切っていない。アキラは中身を見るのが怖かった。
もし、これがヒカルからの別れの手紙だったら………そう考えるとどうしても、読めなかったのだ。
これを受け取ったときは、ヒカルの気持ちがまるでわからなかった。でも、今は違う。
アキラは、手紙をとりだし、大事そうに表に書かれた文字をなぞった。
「………帰ったら、読んでみよう……」
そして、もし、そこに別離の言葉が書かれていたら、すぐにヒカルの家へ押しかけて、目の前で
破り捨ててやる。そう思った。
(193)
「手紙着いたかなあ………」
ヒカルは後悔していた。もし、アキラが手紙を読んでたら、どうしよう。
手紙にはたったの一言しか書いていない。他愛のないラブレターだ。いや、ラブレターと
言えるほどのものですらない。
差出人の名前は書いていないが、便せんを見ればすぐにわかってしまうだろう。そこに
書いてあることはヒカルの素直な気持ちだ。
「どうしよう………出さない方がよかったかな………」
アキラに見捨てられるのが怖くて、せめて気持ちだけでも伝えたくて書いた手紙だ。
だけど……………………
―――――オレにその資格があるのかな?
会えないくせに、アキラを縛り付ける権利があるのだろうか?
「塔矢は優しいから………」
あの手紙見たら、ヒカルを切れないかも――――と、思った。それを考えると寂しくて、悲しくて、
辛かった。同情でも何でもいいから、見捨てないで欲しい。でも………いいのかな?それで………。
今から、取り返してこようか………もう、三日も前に出したから、普通ならとっくに着いている。
でも、もしかして、もしかしたら、何かの事情でまだ配達されていないかも………アキラは
読んでいないかもしれない。
非常識なのはわかっているが、郵便受けから、そっと抜き取ればわからないのではないだろうか………?
階段を下りる音に、母が台所から顔を覗かせた。
「ヒカル?どこに行くの?もうご飯よ。」
靴を履こうとするヒカルの背中に、不安げな声が届いた。
「ちょっと………」
ヒカルは、母の制止を無視して、飛び出した。
外は、もう真っ暗だった。きっと、アキラはもうアパートに帰っている。郵便受けに手紙も
残っているわけがない。それなのにどうして、自分はこんなに急いでそこに行こうとしているのだろう………?
理由はわかっている。手紙のことは言い訳だ。
アキラの顔が見たい――――――ほんの少しだけ、たとえ、部屋の灯りを見るだけでもいいのだ。
ヒカルはおぼつかない足取りで、それでも、必死に走った。
(194)
ヒカルの家から駅への道は、週末、ナンパ狙いの男や、ナンパ待ちの女であふれかえっている。
今日は平日だが、まだ夏休みだし、夏の終わりを満喫しようという男女でいっぱいだろう。
それを考えると憂鬱だが、かといって、そこを通らないことには酷く遠回りを強いられることになる。
一秒でも早くアキラの元に行きたいヒカルにとっては、それは残酷な選択肢だった。
案の定、途中、若い男に何度か声をかけられた。しかし、震えながら、自分が男であることを
伝えると、ほとんどの相手は急に興味を失ったように去っていった。
―――――あれ?案外簡単だな……
こういうモノかもしれない。自分は今まで、警戒しすぎていたのかな?ホッと胸を撫で下ろして、再び歩き始めた。
「ねえ?キミ暇?」
まただ。二人組の若い男。茶髪にピアス今時の若者といった感じだ。
ヒカルより二、三歳上だろうか。“少年”と“雄”のちょうど中間。だが、その目に微かに
宿る陰湿な光が、二人を実際より上に見せていた。
ヒカルは相手の顔を見ないようにして、「オレ、男だから……」と震える声で告げた。
「え―――!?マジかよ?」
「ウソだろ?」
一人がいきなり、ヒカルの胸を鷲掴みにした。
「!!!」
ヒカルは身体を捩り、男の手から逃れた。
「………マジだよ…ぺったんこだ…」
「へーこんなに可愛いのに?」
もう一人が後ろから覆い被さってきた。ヒカルは身体を捩って腕をはずそうと藻掻いたが、
そうすると男は殊更強く抱きしめてきた。
「や、やだ……離して……」
ヒカルの首筋に唇を寄せ、胸と言わず腰と言わず身体中をまさぐり始めた。
「マジで男だよ……へー……」最初は面白がっていた男がだんだんと無口になる。
「………いい匂いがする……肌もスベスベでスゲー柔らかくて気持ちいい……」
「いや、やめて………」
泣きそうになるのを堪えて、ヒカルは男達に哀願した。
ゴクリ――――生唾を呑み込む音がヒカルの耳に届いた。顔を上げると、目の前にいた
男の目に嫌な色を感じた。ヒカルを抱きしめたまま、離さない男も同じような目をしているのだろうか。
「………なんかヘンな気分になってきた…」
「オレも………………コイツ可愛いし……それに……妙に色気あるし……」
ヒカルは目の前が真っ暗になったような気がした。
(195)
暴れるヒカルをムリヤリ路地裏に引っ張り込もうとする。周りには人が大勢いるのに、
関わり合いになるのを恐れてか、誰も助けてくれない。
男達の口元に張り付いたいやらしい笑いにゾッとした。ヒカルが抵抗すればするほど、
その笑みは汚らしく陰惨なモノになっていく。
ヒカルの怯えた瞳やか細い悲鳴が加虐性を刺激し、柔らかな体臭や出来上がっていない
骨格の繊細さが情欲を煽っていた。
二人がかりで引きずられ、恐怖で気を失いそうになりながらもヒカルは抵抗を続けた。
――――――どうして!どうして、みんな邪魔をするんだ!
オレはただ、塔矢に会いたいだけなのに!!!
アキラにも会えなくて………大好きだった友達も無くして………
外に出るのが怖くて………安心できる居場所も失った………。
こんなことになったのは全部自分が悪いのだと思っていた。でも………
――――――オレは悪くない!オレは何にもしてない!
激しい怒りが全身を焼きつくした。
「コラ!暴れるな!」
思い切り手を捩られる。ヒカルはそれでもやめなかった。自分を掴む男の手に噛み付いた。
「イテ!」
男が怯んだ隙に足を思い切り踏んづけた。
「コイツ!」
もう一人がヒカルを殴ろうとした。それをかろうじてよけると、ヒカルは渾身の力を込めて、
相手を突き飛ばした。
派手な悲鳴を上げて、男がひっくり返った。ヒカルはもう一人が狼狽えているのを尻目に
ひらりと身を翻して駆け出した。
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