平安幻想異聞録-異聞- 193 - 196


(193)
しかし、自分はずっとそのヒカルの優しさに甘えてきてしまった。
内裏の貴族達の心無い言葉に、心乱れるとき、いつもそうしていたように。
そうやって、自分は出会ってからずっとヒカルに守ってもらっていたのだ。
常に傍らにある彼の存在に、自分が秘すべき感情を抱き始めたのはいつから
だったか――哀しみの淵に沈みながらも、そんな風にヒカルのことに思いを
馳せていると、ふつふつと絶えることない泉のように、愛おしさが
湧き出てくるから不思議だ。
いったい自分のどこにこんな感情が隠れていたのだろうかと思う。
部屋の明かり取りの窓近く、一輪挿しに挿された、菊の花びらが
一枚落ちた。
それは菊の宴のあの日に、ヒカルの冠から盗んできた黄色い小菊の花枝だった。
花は、すでにわずかに俯き始めている。
自分はあの日、この花がしおれるまでに必ず近衛の家に帰れるように
算段すると、ヒカルに約束したのではなかったか。
佐為は立ち上がると、部屋の片隅の棚の中をを探し、久方ぶりに笛をとった。
激しい怒りと哀しみと愛おしさに、散々と乱れる心を落ち着けるために。
日が暮れれば、自分はまた賀茂アキラとともに、蠱毒の壺を探しに出かける。
それまでに、平静を取り戻しておきたかった。
庭に出ると黄昏時の風に尾花が穂をゆらしていた。
佐為は笛に口を付けた。
笛の銘を「青紅葉」という。
秋の紅葉の優雅さはないが、夏の青い紅葉の林を吹き抜ける風にも
似た涼やかな音色に、その笛を作った名工が、その笛に与えた銘であった。


(194)
座間邸に帰り着き、太刀も取り上げられて、自室でぐったりと体を休めていた
ヒカルは、耳を撫でるその風の音に、頭をもたげた。
懐しい音だった。
自分の体の重さも忘れ、ヒカルは庭に飛びだしていた。
侍女があわてて連れ戻そうとヒカルの腕を取ったが、振り払った。
ヒカルはその風の音をよくしっていた。
かの妖怪退治の時にいつも聞いていた旋律だった。
佐為が指示した場所にたどりつき、妖怪の出現を待つ間、じれて落ち着きの
ないヒカルのために佐為がよく奏でてくれた曲だった。
楽曲には疎いヒカルだったが、佐為の笛の音色だけは絶対に間違えない
自信があった。
ヒカルは、笛の音が絶えるまで、じっと庭に立ち尽くしていた。


錦秋の空を渡って、ヒカルに届いたその笛の音が、本当に佐為のものだったのか。
座間邸は二条、佐為の自邸は四条、風の方向さえあえば届くという距離ではない。
だが、その音色は確かにヒカルの耳に残って、頭の中で反響していた。


(195)
くしゃみをひとつして、座間邸に与えられた部屋に戻る。
目の端に、侍女がほっとした顔になるのが見えた。そして同時に慌てたように、
手に濡らした布を持って走ってきた。
思わず何も考えず飛びだしていたヒカルは、裸足のまま庭に降りていたのだ。
「お足を……」
「いい。自分で拭く」
ヒカルは、侍女が持ってきた布を手にとった。
相変わらず、座間はこんなものにまで上等のものを使う。布は真っ白な絹だった。
今、ヒカルが足の泥を拭いているこの布を買うだけの金があれば、普通に
京の町で生活する人々は、どれだけの日数分の食事を購えるんだろう。
溜め息をつく。そんな事でも考えていないと、夜が暮れるのが怖くて
しょうがない自分がいるのは分かっている。
床の方からしんしんと冷えてきた。秋の深まりを感じさせる夜の冷え込み。
部屋の中はいっそう薄暗くなったが、今日はまだ灯明台の火は灯されない。
例の香も持ち込まれない。
時を潰すうち、いよいよ部屋が暗くなり、自分の足元を見るのさえ、
おぼつかなくなってきて、さすがにヒカルも、疑問に思い始めた。
自分の部屋だけではない、座間邸全体が人気が消えたように静かだ。
気がつけば、昨日まであんなに庭で煩く啼いていた虫達さえ、
歌を忘れたように黙りこくっている。
外の様子を確かめようと、部屋の前の渡り廊下にでようとしたヒカルだが、
自分の背後に気配を感じて振り返った。
部屋の奥に、豪奢な十二単衣を身に纏い、暗闇にしらじらと浮かび上がる
ような乳色の肌をした女がひとり立っていた。
ヒカルは慌てて辺りを見た。この部屋の出入り口は、今、自分が寄ろうと
していた渡り廊下だけだ。いったいどこから? 入ってくる気配などなかった。
女が典雅なしぐさで手招きをした。
ヒカルは誘われるように、そちらに一歩を踏みだした。


(196)
夜陰に乗じてするすると走る影が二つ。
建物の影から影へ隠れて、検非違使庁の敷地に滑り込んだのは、黒い布を
かぶった藤原佐為と賀茂アキラであった。
「昨日は南と西を調べました。今日は棟の北と東を」
「では、私が北を」
「ぼくは東を調べます」
二人はそうして一刻半程の間、建物の下や、周りの土に掘り返した後が
ないか調べ、建物近くの木のうろ、根元、潅木の茂みまでわけいって、何か
妖しげな痕跡はないか探した。
「アキラ殿、いかがです」
大きな石をどかして、その下を検分していたアキラは、後ろから
掛けられた声にただ首を振った。
「今まで、探索した中で、我々の見逃しがあったとは思いたくは
 ないですが。しかし、これで近衛が日常で出入りする場所、呪に必要な
 彼の「匂い」の痕跡が残る場所は、あらかた探し終わってしまいました」
佐為の手元にある紙には、アキラのいうところの『蠱毒の壺が埋められている
可能性のある場所』が書き連ねられており、それは、一行を残して塗り
つぶされていた。
「後はそこだけです」
アキラが立ち上がって、佐為の方に向き直った。
「ですが、私はヒカルからは何も……」
「わかっています」
佐為は手元の紙を見た。
可能性がありながらまだ探されていない場所がある。
すなわち、近衛ヒカルがあの夜、暴行を受けた場所であった。



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