平安幻想異聞録-異聞- 195 - 200


(195)
くしゃみをひとつして、座間邸に与えられた部屋に戻る。
目の端に、侍女がほっとした顔になるのが見えた。そして同時に慌てたように、
手に濡らした布を持って走ってきた。
思わず何も考えず飛びだしていたヒカルは、裸足のまま庭に降りていたのだ。
「お足を……」
「いい。自分で拭く」
ヒカルは、侍女が持ってきた布を手にとった。
相変わらず、座間はこんなものにまで上等のものを使う。布は真っ白な絹だった。
今、ヒカルが足の泥を拭いているこの布を買うだけの金があれば、普通に
京の町で生活する人々は、どれだけの日数分の食事を購えるんだろう。
溜め息をつく。そんな事でも考えていないと、夜が暮れるのが怖くて
しょうがない自分がいるのは分かっている。
床の方からしんしんと冷えてきた。秋の深まりを感じさせる夜の冷え込み。
部屋の中はいっそう薄暗くなったが、今日はまだ灯明台の火は灯されない。
例の香も持ち込まれない。
時を潰すうち、いよいよ部屋が暗くなり、自分の足元を見るのさえ、
おぼつかなくなってきて、さすがにヒカルも、疑問に思い始めた。
自分の部屋だけではない、座間邸全体が人気が消えたように静かだ。
気がつけば、昨日まであんなに庭で煩く啼いていた虫達さえ、
歌を忘れたように黙りこくっている。
外の様子を確かめようと、部屋の前の渡り廊下にでようとしたヒカルだが、
自分の背後に気配を感じて振り返った。
部屋の奥に、豪奢な十二単衣を身に纏い、暗闇にしらじらと浮かび上がる
ような乳色の肌をした女がひとり立っていた。
ヒカルは慌てて辺りを見た。この部屋の出入り口は、今、自分が寄ろうと
していた渡り廊下だけだ。いったいどこから? 入ってくる気配などなかった。
女が典雅なしぐさで手招きをした。
ヒカルは誘われるように、そちらに一歩を踏みだした。


(196)
夜陰に乗じてするすると走る影が二つ。
建物の影から影へ隠れて、検非違使庁の敷地に滑り込んだのは、黒い布を
かぶった藤原佐為と賀茂アキラであった。
「昨日は南と西を調べました。今日は棟の北と東を」
「では、私が北を」
「ぼくは東を調べます」
二人はそうして一刻半程の間、建物の下や、周りの土に掘り返した後が
ないか調べ、建物近くの木のうろ、根元、潅木の茂みまでわけいって、何か
妖しげな痕跡はないか探した。
「アキラ殿、いかがです」
大きな石をどかして、その下を検分していたアキラは、後ろから
掛けられた声にただ首を振った。
「今まで、探索した中で、我々の見逃しがあったとは思いたくは
 ないですが。しかし、これで近衛が日常で出入りする場所、呪に必要な
 彼の「匂い」の痕跡が残る場所は、あらかた探し終わってしまいました」
佐為の手元にある紙には、アキラのいうところの『蠱毒の壺が埋められている
可能性のある場所』が書き連ねられており、それは、一行を残して塗り
つぶされていた。
「後はそこだけです」
アキラが立ち上がって、佐為の方に向き直った。
「ですが、私はヒカルからは何も……」
「わかっています」
佐為は手元の紙を見た。
可能性がありながらまだ探されていない場所がある。
すなわち、近衛ヒカルがあの夜、暴行を受けた場所であった。


(197)
「近衛は検非違使の務めの帰りに、かの者たちに乱暴されたと聞きました。
 と、すれば、この検非違使の庁の棟と近衛の家の通いの道の間の出来事。
 このあたりは出自の確かな貴族の屋敷も多く、そのような暴行を働いて
 人目に付かない場所、誰も見咎められない場所などたかが知れています。
 端からそういった場所を洗い出し、調べていけば……」
「違うのです、アキラ殿。ヒカルはあの日、検非違使庁からの帰り道に
 襲われたわけではないのです」
「……なんですって?」
アキラは言葉を止めた。
「あの日、ヒカルはいつも通り、夕刻に囲碁指南の務めを終えた私を
 家まで送り届けてくれた後、もう一度出掛けているのです。この京の都の
 町の外へ」
「出掛けた先のお心当たりは?」
「おそらく、清原頼業様の廟」
「『桜の宮』ですか?」
その廟は故人を偲んで、頼業が愛した花、桜が多く植えられているので
そう呼ばれていた。
佐為が頷いた。
「祈念神石の話は御存知ですか?」
「はい。廟内の石を持ち帰って祀れば願いがかない、願いがかなえられれば、
 新しい石を添えてにそれを廟に返しに行く……というのが宮中の女房たち
 の間で、新しいまじないとして流行していると」
「そうです。しかし女房達は自分で廟に詣でることはまずありません。衛士や
 検非違使にそれを頼むのです。ヒカルもあの日、私を自宅まで送った後、
 これからどこぞの女房から頼まれた石を『宮』まで届けに行くのだと言って
 いました」


(198)
今となっては、その女房にさえ、ヒカルを罠にかけるための座間の策略の手が
伸びていたのではないかと思えてくるが。
西山近く、清原頼業の御霊を祀った聖なる花の宮。
佐為は、だが、そこに通う道筋のどこで件の暴虐が行われたのかをしらない。
あの事件があった夜や、その後はとにかく、ヒカルが立ち直れるように心を
尽くすのに精一杯だった。そのヒカルにどうして、それがどこで行われたのか等と
問いただすことができただろう?
「困りましたね」
アキラは頤に軽く手をやった。
「えぇ」
平安京から洛外の桜の宮まではおよそ四里(平安時代の一里は約654メートル)。
平安京の西の端からそこまでの間には、暴行が行われそうな林や荒れ地など
いくらでもある。
そのいずこにか埋められた蠱毒の壺を探すことなど、雲を掴むような話に思われた。
「アキラ殿」
佐為が顔を上げた。
「式神を使いましょう。ヒカルにとっては思い出すのも辛い事とは思いますが、
 それでも、これはヒカルに直接場所を聞いた方がいい。」
「いえ、それはやめましょう」
「何故です?! 式神を使えば、座間邸にいるヒカルに連絡が取れるのでしょう」
アキラは首を振った。
「式神はたしかにあの座間邸の結界を抜けられるようになりましたが、
 抜けた痕跡は残るのです。そうたびたび式神を飛ばしては、向こう側の
 陰陽師に気付かれます。そうすれば、当然彼らは近衛を問いただし、
 例の札を発見されてしまうでしょう。悪くすれば近衛の居場所自体を
 移されてしまう危険もあります」
「しかし、それでは……! こうして私達がもたもたしている間にも、
 ヒカルの身に何が起きているか!」
佐為の心を痛めつけるのは、昼間、座間たちから聞いたヒカルの話。あの男に
体を押し開かれて喘ぐヒカルの姿だった。


(199)
「それでも、あれは最後の手段にとっておきたい――せめて後3日は
 間を開けたいのです」
苛立った佐為は思わず言葉を荒げていた。
「私はそんなには待てません、アキラ殿! アキラ殿はあの座間の屋敷で
 ヒカルがどんな目にあっているか知らないから…!」
「知っています」
場がほんの一時だけ静まり返る。夜風が佐為の髪をなぶった。
「――知っていたのですか」
「座間殿の性向性癖を考えれば多少は予測がつきます。そして今日の朝、
 伊角殿の話を聞いて確信を得ました」
「ならば、なぜ――! アキラ殿はあの状況から、ヒカルを一刻も早く
 救い出したいとは思わないのですか?」」
「佐為殿……、陰陽師が妖しや魔物と同じく氷のように冷たい心を
 持っているとお思いですか?」
そう言いながらアキラは、それこそ魔物のような冷たい視線で佐為を睨んだ。
「近衛の事を自分より深く思っている者はいないとでも?」
「アキラ殿……」
「今、事を急いては、すべての努力が無に帰します。近衛の事を思えばこそ、
 私は申し上げているのです」
さすがに佐為も黙った。せいいっぱいの事をしてくれているアキラに、ヒカルを
心配するあまりとはいえ、子供のように駄々をこね困らせているのは自分の方だ。
「申し訳ない事を言いました。アキラ殿。そうですね、ここは貴方に
 従いましょう」
「いえ、僕のほうこそ、きつい口を聞きました。お許し下さい。それから
 貴方の御心労を考えて、伊角殿の話の全てをお耳に入れなかったことも」
何も言わずに佐為は首を振った。
「とにかく今は、まず、桜の宮への道のまわりにそれらしい場所がないか、
 探しにいきましょう。夜明けまでは間がある。今晩のうちに少しでも
 調べられるのならそうした方がいい。――僕も近衛の身が心配な事には
 変わりありません」


(200)
アキラが黒い布をかぶりなおし歩き出した。その背を見ながら、佐為は
何かを思い出しかけていた。今まで他のことに気が行っていて、心に
止まらなかった言葉だ。
「……竹林です。アキラ殿」
その言葉にアキラが肩越しに佐為を見た。
佐為は今日の、そして以前にヒカルを伴って座間達に遭った時の事を思い出して
いた。あの時も今日も、座間達は確かに言っていたのだ。『あの下弦の月の夜』
『竹林で』と。
「ヒカルが襲われたのは竹林です。間違いありません」
京と西の宮の間は四里。その道中にはいくつの竹林があるかしれない。十か、
二十か。
それでも、何の手がかりもなく闇雲に荒れ野を探し回るよりは遥かに
ましだった。



その女は白檀の香りをさせていた。
乳色をした肌は、磨かれた珊瑚のようなつややかさだ。
微笑めば牡丹の花が咲いたようにあでやかだった。
手招きで呼ばれて、ヒカルはフラフラとその女のそばに寄っていた。
女はその唐衣でヒカルを包むように抱きしめた。
ヒカルは女の顔を見上げた。その顔は美しかったが、その瞳の黒目は、ヤギの
ように横長につぶれて広がっていた。
これは人ではない。
とたんに正気が返り、ヒカルの全身の肌が泡立った。
女の口が開いた。真っ赤な口腔から蛇のように長い舌が垂れ下がった。



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